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45歳からの海外起業奮闘記 in 台湾

かきまぜろ Minasokowo!日が差せば一粒一粒がかがやくだろう。

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日本語教室

「基隆」

前回「基隆」のことを書いて、一人の生徒のことを思い出した。

 これは初めて公開するが、実は私は大学中退だ。私の入った東京にある小さな私立大学は卒業後先生になる人が多いのだが、私は中退なので教員資格はない。日本の家のローン返済を目論見、女房の実家のある台北で商売を始めた。しばらくして常連客の旦那さんから日本語を教えて欲しいと頼まれた。教員資格はないし、日本語を教えた経験もないし、自身もないしで、ためらった。

 当時の私の役割は、経営資金調達、仕入れに関わる全てのこと、例えば車を運転し仕入れ先を探す、服を選ぶ、仕入れ時に使っている日本の家の掃除草むしりなどなど。台湾では大阪のおばさんみたいに押しの強い台湾の女性に太刀打ち出来るほどの中国語はまだ話せず、簡単に言えば、台湾では役立たずだったので、日本語を教えてみることにした。

 教え始めて間もなく、常連客の旦那さんである生徒第一号に

「先生、本屋に(日本語の教え方)という本を売っていますよ。」と言われた。早速本屋へ行き、その本を買い、「日本語の教え方」の勉強を始めた。こんなバレバレの偽教師なのにこの生徒がやめなかったのはひとえに授業料の安さの所為だろう。最初授業料をいくらにするかで悩んだが、資格はないし、自信もないし、台北の相場もわからないし、確か100元か150元にしたと思う。

 このことを当時まだ在籍していた中国語学校の先生に話したら、

「馬鹿じゃないの。そんなに安かったら台湾中から生徒が押し寄せるよ。」と笑われた。その後知り合った、やはり台湾の女性と結婚し日本語を教えている人から、

「俺等の生活の邪魔すんじゃねえ!」と言わんばかりに

「価格破壊だ!」

と非難された。それ以来この人とは会っていない。

 さて少し時が経ち、日本語教師としての腕も多少は上がっていた頃だと思う。私達と同じようにブティックを始めたばかりで四平街ママの所に出入りしている女性の紹介で新しい生徒が来ることになった。台湾大学出であちこちの日本語教室へ通ったがうまくいかなかったらしい。日本でいえば東京大学に当たる台湾最高学府の台湾大学卒業と聞き正直ビビったが、興味もあった。

 私は基本的にワンバイワンで教えており、授業時間は少なくとも1時間半か2時間欲しかったのだが、彼の要望で1時間でスタートした。もともと彼は頭も良く、しかも学校を渡り歩いていて基礎もあるので、進歩が早かった。彼も当初私の教え方に満足して

「事半功倍」「功半事倍」(グーグルの翻訳によれば、「より少ないコストでより多くのことを行う」となっている。)と褒めてくれた。

 しかしすぐに彼の本性が現れた。頭が良すぎるので、彼はとにかくなんにでも批判的だった。彼の奥さんと奥さんのお父さんつまり義父に対しても容赦なかった。

 その頃日本から来て毎日大行列で話題になっていたダンキンドーナツについても、「あんなのは、時間の無駄だ。すぐに消えてなくなる。」と言い、私は、「いや、これからはあれが台湾の標準になり、どんどん新しいのが出てくる。私は日本でそれを経験しているから間違いない。」

 また「日本の物を高く売るのはおかしい。私が買っているゴルフクラブ台湾製より安い。」とまるで私が売っている服の値段のことを言っているように聞こえたので、私も「もしあなたが買ったゴルフクラブが本当に日本製ならそんなに安く売れるはずがない。私が売っている服だってちゃんと日本から持ってきているので、飛行機チケットなどの輸送コストや利益をのせたら高くなって当たり前。あなたが買ったのは偽物だ。」と反論。

 こんなことをやっていれば1時間なんかあっという間だ。いつも時間オーバーしてしまった。

 さらに彼は何度も日本へ旅行したことがあり、「レストランで水を頼んだが、日本人ウェイトレスはウォーターの英語さえわからない」とか、「日本の駅弁は冷たくてまずい」などと文句を並べる。そして、ある日こんなことを言った。

「基隆という地名は昔、日本軍が勝手に変えた。本当は(鶏籠)だったのだ。」とうとう来たかと思った。台湾では、日本人とわかると皆とても親切にしてくれるが、私は絶対に日本人に反感を抱いている人がいると考えていた。私は政治に関わりたくないので、この時は黙っていた。

 私の所に通いながら、何回目かの日本旅行から帰ってきた彼は日本語がほぼペラペラになっていた。これは私の力などでは決してなく、やはり彼はとびぬけて頭がいいのだ。私の方はどうやって勉強したのかを聞きたいくらいだったが、私にもプライドがあり、聞けなかった。

彼はますます過激になっていき、私の方も授業料を少しずつ上げていった。

これまでの日本語授業に関する様々な問題は、副教材と私の文学的素養(?)で何とか乗り切ってきたが、助詞「は」の解釈をめぐり議論になった。私も引くに引けず、自分の主張を押し通したが、

「先生、それはおかしい。」

とはっきり彼は言った。私の言うことにも一理はあったのだが、結局彼が正しかった。そして彼は払った分だけの授業を消化し、やめていった。最後に教室を出るとき、ドアを半分開き、私の方を振り向き様に

「けっ!このクソバカ教師!」

とでも言いたげに私を一睨みして去って行った。その後景美朝市ですれ違った時にももう一度がんを飛ばされた。