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45歳からの海外起業奮闘記 in 台湾

45歳で海外起業に挑戦 in 台灣 no:14

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私の朝ご飯

「四平街ママとの学習の日々」

 「田園都市線 溝ノ口 二子新地

 「45秒で何ができる?」はTIKTOK(綴り間違っていたらごめんなさい。)のヒット作品?

 では20年で何ができる?私は20年で何も達成できなかった。そして、その間いろんな物が変わっていった。例えば物の名前、日本の首相、円の為替レート(これは私達にとってとても重要だった。)

アメリカ大統領、地価(そうそう、4000万で買った私の家は1000万に!)懐かしい目蒲線は今は昔とは違うらしい。

 私の女房だってテレビドラマチックに変わっていたのに、プライドだけやたらに高い私だけが取り残されているのを後になって知った。

 田園都市線は今でも同じ名前ですか?その沿線の溝ノ口、そして二子新地、それから青葉台の団地にも住んだっけ。東京へ仕入れに行った帰りに急にこの団地が見たくなって、東名高速青葉台インターで下りてみたが、以前のくねくねしたバス通りが途中で拡幅され、結局団地は見つからなかった。

 団地の隣の奥さんが

「ぎりぎり我慢できるレベルよね、あそこの寿し。」

 と言っていた鯉寿司も何処かへ行ってしまった。ここのちらし重はコスパがよく、私のお気に入りで、東京へ行った帰りにわざわざ高速道路を降りて何度か食べに行ったこともある。

「中央林間」

 その後座間へ移り住み、田園都市線二子新地にあるSというパン屋の本社の事務をやっていた女房は座間の自宅から自転車で中央林間駅まで通っていた。

 元々私達は偶々二子新地に住んでおり、ここで知り合い、籍を入れ、私のアパートにいっしょに住み、女房は大学に通い始め、その後、やはり二子新地のちょっときれいなマンションに住んだ。大学を卒業し女房は仕事を探したがなかなかなく、最後に決まったのが家から歩いて5分のところにあるサンジェルマンのパン工場と本社だった。

 今でも忘れない。彼女の最初の仕事はサンジェルマンの各店舗からの売り上げ報告を聞き取り、記入するというものだったが、私が授業料を支払った大学の4年間をどうすごしたのだろう。

 女房は聞き取りが出来ず、各店舗からの報告を録音したテープを泣きながら持って帰って来た。田舎の高校出の女の子達が同じ敷地内にある寮に住みながらやっている仕事だが、外国人の女房には簡単ではなく、私も仕事が終わってから夜いっしょに、店舗名と数字のテープをなんども聞き、練習につきあったものだ。

 そうやって仕事を覚え、どのくらいたっただろうか?日本人の若い同僚達ともいろいろ話せるようになって、情報も入るようになったのだろう。団地に引っ越そうと言い出し、すでに自分で見つけていた、同じ田園都市線青葉台駅からバス乗り換えで15分ぐらいの団地に引っ越した。

 それからどれくらいたったのか?1年、それとも2年後か?女房が今度は家を買いたいと言い出した。お金の管理は任せきりにしていたし、結婚し最後に持ち家に住むというのは普通のことなので、特に反対はしなかったが、

「女房も仕事を続けること」

という約束をさせた。座間から二子新地に通うのは簡単ではないと思ったからだ。

 我が家から二子新地へは二つの通勤ルートが考えられる。

一つは自転車で(歩けば20分かかる)小田急相模原駅から相模大野駅、ここで小田急江ノ島方面の電車で二駅目の中央林間駅でおり、田園都市線に乗り換えるコース。

 もう一つは家から自転車で直接中央林間駅へ向かうルート。これも15分ぐらい掛かり、安全な大通りを走れば遠回りになり、近道はゴルフ場の周囲を回る狭く危険な道だった。

 女房は後者を選ぶことが多かったが、朝寝坊し、夜勤明けで帰って来た私が車で中央林間駅まで送ることもよくあった。結局1年も持たず会社を辞めてしまった。

 45歳にして退職し海外で事業を始めると言えば、大抵、夢や希望を持って取り組む場合が多いと思うのだが、私の場合はこの女房の退職が直接の切っ掛けだった。

 私は夢や希望を胸にプランを立て、現地情報を調べ、自分の経済状況なども頭に入れつつ、理性的に物事を進めていくほど優秀な男、旦那ではなかった。

 私を動かしたのは、私の大きなミスによる会社での居心地の悪さと女房の約束破りの退職だったのだ。

  「人生とは皮肉なもの」

 これはよく聞く言葉だ。

 プライドが高く、独りよがり、神経質で自分に甘いなどなどの数々の欠点を持ち、何も達成できずにいる私と、私を裏切り、私を転がし続け、自分の物欲と性欲に真っ直ぐ生きている女房の組み合わせ。

 そして私は会社で大きな失敗をし、苦境に立たされたが、この時から私の中で初めて ”歯車” が回り始めた、手ごたえを感じた。

 この時掴んだ自信が外国、台湾で商売を始める原動力にもなったのだから、本当に皮肉なものだと思う。