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45歳からの海外起業奮闘記 in 台湾

KAKIMAZERO 水底を!日が差せば輝くだろう、一粒一粒が。NO:6

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ある病院にて

「薬を食べる」

むかしむかし、ずっと若い頃に九州から上京し、東京の真っ黒い醤油スープのうどんが食べれるようになるまでに10年要した私は適応力が極めて弱いと言わざるを得ない。

 適応力"弱”男の私が異国の地台湾でてこずった物は少なくないが、それは何も食べ物に限ったことではない。なかなか理解できないもの、腑に落ちないもの、手に負えないものなどなどの色々な言葉にも遭遇して来た。

「吃藥」もその一つだ。

「吃」は「食べる」という動詞。

直訳すると「薬を食べる」になる。 

ちなみに中国語で「飲む」は「喝」という。

したがって、もちろん私だって中国語の授業で、「吃薬」というべきところを何度も「喝薬」と言い間違ったことがある。

偽教師の分際でほぼ20年、こそこそと日本語教師をして来た。その経験では、台湾の生徒も日本語の「薬を飲む」を「薬を食べる」と訳す間違いが多い。生徒がこの間違いを犯した時、

「そうだよね。そうなるよね。」

と密かにほくそ笑んだものだった。

 それにしてもである。なんで「薬を食べる」なのだろうか。

「たべる」とは「咀嚼する」「噛む」とほぼ同じではないだろうか。

カプセル入りの薬を噛む、あるいは咀嚼するなんて考えただけで、苦そうだ。やはり、「飲み込む」「呑み込む」「嚥下する」「水で飲み下す」などが適当なのではないか。

 台湾へ来て20年以上過ぎ、単発的、短期的な胃潰瘍、尿結石、前立腺肥大症(現在進行中)、ぎっくり腰、坐骨神経痛、髪染め薬による頭部の出来物(禿というほどではないにしろ、髪がすくなくなる後遺症あり)、

 それにほぼ20年来休まず、風邪と下痢に悩まされている。「あっちが痛い、こっちが痛い」で病院通いを続け、つまり、20年間風邪薬と下痢止めを食べ続けているという訳だ。

 女房は真逆でほとんど病院へ行きたがらない。ただ一つの欠点は "欲” が強すぎることだ。彼女の物欲、性欲、が夫婦関係を壊し、食欲が彼女を糖尿病にした。

 最近ある小さなことを切っ掛けに彼女の血糖値が急上昇し、店の長椅子に横たわり、風邪でもないのにガタガタ震えが止まらないことがあった。それでも私の言うことを聞かず、病院へ行こうとしない。隣近所の店の人や管理人なども来て説得したが聞き入れず、実の兄に電話を掛け説得してもらってやっと聞き入れた。

 隣駅にある仏教系の総合病院へタクシーで連れて行き、救急で見てもらったら、血糖値が600でかなり危険らしく、ベッドの横には映画やテレビの医療ドラマなどで目にする、心臓停止時にショックを与えて蘇生させる、アイロンのお化けのような物も用意されていた。

 入院して1週間がたったころだろうか、女房は退院したがり、医者が反対すると、「ここは金儲けばかりの悪徳病院だ。」などと言い出し、看護婦さんとも喧嘩し、同じ新店市内のキリスト教系の病院へ移るとわがままを言い、結局転院してしまった。

 金はあるのに(もちろん私には金はないと嘘を言い続けているが、、、)、入院費用をケチり、ここもそうそうに退院してしまった。そして、彼女お気に入りの 鼻腔専門クリニックで大病院と同じ薬を出してもらい、食事前の注射(!?)と薬を ”食べ” 続けている。

 これがいい教訓になったのか、彼女も病院へ行くようになったが、風邪の時は今でも私の薬を、つまみ食いしている。

 最近、事情があり別居をやめ、また女房と同居するべく引っ越した。私は今でも癌の再発を抑える薬を食べ続けている。この薬をもらうために、女房と同じ新店のキリスト教系の病院へ行くようになり、前立腺肥大症もここで見てもらうことにした。

 この泌尿器科の若くて優秀な医者に、ついでに風邪薬を頼んでみたら、これがよく効いた。ある日ふと、片方が透明のビニールで、もう片方の紙袋にかかれた効能書きを見ると、風邪の他に「関節炎」と書いてあった。

 女房は退院して薬を食べ続けてはいたが、血糖値は200を切ることはほとんどなく、足と手にむくみと痛みがあり、椅子から立ち上がる時も膝ががくがくする状態だった。

 これを見て私は泌尿器科の先生に貰った風邪薬の効能書きの「関節炎」を思い出し、女房にそのことを伝え、試してみるか聞くと、うん、と言った。

 これが劇的に効き、膝の痛みがなくなり、椅子から立ち上がるときもすっとたてるようになった。それからは、私を真似て、店のあるビルの隣の地下鉄のコンコースでウォーキングを始めるとますます元気になり、階段の上り下りも歳(現在62歳)相応にできるまでに回復した。

 ところが、引っ越しのごたごたのあと、女房の膝がまた悪化してしまい、手にも痛みがあり、最近は素直に病院へ行き、薬を貰ってきた。その中の一つが 「肌肉鬆弛劑」日本語だと「筋弛緩薬(グーグル翻訳)」だった。

 日本でだか、台湾でだかは忘れたが、以前にもぎっくり腰だか何だかでひどく痛んだことがあり、医者に筋弛緩薬を処方するかどうか聞かれ断ったことがあった。

 体の一部の痛みを消すのに、センサーが付いている訳でもない、只の飲み(食べ)薬が効くとは信じられなかったからだ。

 とは言え、私の信心なんてなんの根拠もなく、脆いものだ。やはり、引っ越しのごたごたの後、毎朝洗顔のため体を屈める度に腰が痛み、それがあのまともに歩けないほどの痛みを伴うぎっくり腰を連想させ、

「食べてみたら!彼女の筋弛緩薬、効くかもよ。」

などと私のなかでそそのかす奴がいて、まんまとそれにはまってしまったのだ。

 自分を信じ切れず、禁断の薬を食べてしまった私は今思う。

「筋弛緩薬」は確かによく効く。すぐ痛みがなくなるのだ。だが、その強力な効き目は患部だけではなく、異常のない体の全体の筋肉にも影響を及ぼしてしまうのだ。簡単に言えば、

「体調を崩してしまう」のだ。

 新聞などで「どこどこで、ある老人が体調を崩し、その後なくなった。」などというニュースを目にし、耳にしたことがあるが、

「特別な病気でもないのに、体調を崩しただけで、なんでなくなるのだろう?」というのが私の感想だった。

 この歳(4月9日で67歳)になって、これがどれだけ大変なものかようやく分かった。

教訓‼

「人の薬は食べてはならぬ。」

45歳で海外起業に挑戦 in 台灣 no:14

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私の朝ご飯

「四平街ママとの学習の日々」

 「田園都市線 溝ノ口 二子新地

 「45秒で何ができる?」はTIKTOK(綴り間違っていたらごめんなさい。)のヒット作品?

 では20年で何ができる?私は20年で何も達成できなかった。そして、その間いろんな物が変わっていった。例えば物の名前、日本の首相、円の為替レート(これは私達にとってとても重要だった。)

アメリカ大統領、地価(そうそう、4000万で買った私の家は1000万に!)懐かしい目蒲線は今は昔とは違うらしい。

 私の女房だってテレビドラマチックに変わっていたのに、プライドだけやたらに高い私だけが取り残されているのを後になって知った。

 田園都市線は今でも同じ名前ですか?その沿線の溝ノ口、そして二子新地、それから青葉台の団地にも住んだっけ。東京へ仕入れに行った帰りに急にこの団地が見たくなって、東名高速青葉台インターで下りてみたが、以前のくねくねしたバス通りが途中で拡幅され、結局団地は見つからなかった。

 団地の隣の奥さんが

「ぎりぎり我慢できるレベルよね、あそこの寿し。」

 と言っていた鯉寿司も何処かへ行ってしまった。ここのちらし重はコスパがよく、私のお気に入りで、東京へ行った帰りにわざわざ高速道路を降りて何度か食べに行ったこともある。

「中央林間」

 その後座間へ移り住み、田園都市線二子新地にあるSというパン屋の本社の事務をやっていた女房は座間の自宅から自転車で中央林間駅まで通っていた。

 元々私達は偶々二子新地に住んでおり、ここで知り合い、籍を入れ、私のアパートにいっしょに住み、女房は大学に通い始め、その後、やはり二子新地のちょっときれいなマンションに住んだ。大学を卒業し女房は仕事を探したがなかなかなく、最後に決まったのが家から歩いて5分のところにあるサンジェルマンのパン工場と本社だった。

 今でも忘れない。彼女の最初の仕事はサンジェルマンの各店舗からの売り上げ報告を聞き取り、記入するというものだったが、私が授業料を支払った大学の4年間をどうすごしたのだろう。

 女房は聞き取りが出来ず、各店舗からの報告を録音したテープを泣きながら持って帰って来た。田舎の高校出の女の子達が同じ敷地内にある寮に住みながらやっている仕事だが、外国人の女房には簡単ではなく、私も仕事が終わってから夜いっしょに、店舗名と数字のテープをなんども聞き、練習につきあったものだ。

 そうやって仕事を覚え、どのくらいたっただろうか?日本人の若い同僚達ともいろいろ話せるようになって、情報も入るようになったのだろう。団地に引っ越そうと言い出し、すでに自分で見つけていた、同じ田園都市線青葉台駅からバス乗り換えで15分ぐらいの団地に引っ越した。

 それからどれくらいたったのか?1年、それとも2年後か?女房が今度は家を買いたいと言い出した。お金の管理は任せきりにしていたし、結婚し最後に持ち家に住むというのは普通のことなので、特に反対はしなかったが、

「女房も仕事を続けること」

という約束をさせた。座間から二子新地に通うのは簡単ではないと思ったからだ。

 我が家から二子新地へは二つの通勤ルートが考えられる。

一つは自転車で(歩けば20分かかる)小田急相模原駅から相模大野駅、ここで小田急江ノ島方面の電車で二駅目の中央林間駅でおり、田園都市線に乗り換えるコース。

 もう一つは家から自転車で直接中央林間駅へ向かうルート。これも15分ぐらい掛かり、安全な大通りを走れば遠回りになり、近道はゴルフ場の周囲を回る狭く危険な道だった。

 女房は後者を選ぶことが多かったが、朝寝坊し、夜勤明けで帰って来た私が車で中央林間駅まで送ることもよくあった。結局1年も持たず会社を辞めてしまった。

 45歳にして退職し海外で事業を始めると言えば、大抵、夢や希望を持って取り組む場合が多いと思うのだが、私の場合はこの女房の退職が直接の切っ掛けだった。

 私は夢や希望を胸にプランを立て、現地情報を調べ、自分の経済状況なども頭に入れつつ、理性的に物事を進めていくほど優秀な男、旦那ではなかった。

 私を動かしたのは、私の大きなミスによる会社での居心地の悪さと女房の約束破りの退職だったのだ。

  「人生とは皮肉なもの」

 これはよく聞く言葉だ。

 プライドが高く、独りよがり、神経質で自分に甘いなどなどの数々の欠点を持ち、何も達成できずにいる私と、私を裏切り、私を転がし続け、自分の物欲と性欲に真っ直ぐ生きている女房の組み合わせ。

 そして私は会社で大きな失敗をし、苦境に立たされたが、この時から私の中で初めて ”歯車” が回り始めた、手ごたえを感じた。

 この時掴んだ自信が外国、台湾で商売を始める原動力にもなったのだから、本当に皮肉なものだと思う。

Kakimazero 水底を❕ 日が差せば輝くだろう、一粒一粒が。NO:5

 

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水虫特効薬

「とうとう、ついに、どうしても、なんでも、やっと、やれやれ、なんだかんだ、結局、オーマイガー、、、水虫が治った話。」

 Tさん、お元気ですか?今何処に住んでおられるのでしょうか?あなたのことですから、結婚し子供も出来、普通に幸せな暮らしをされていることと思います。

 かたや私はといえば、台湾に流れ着き、不幸せ?ふしだら?不似合い?不健康?(すいません。年のせいか?風邪のせいか?言葉も定まりません。)とにかくまあ何とか生活させてもらっています。

武蔵小山

 Tさん、あなたと会ったのは東京は東急目蒲線(今はかなりの路線変更があり、昔とは違っているようですね。)の武蔵小山駅ちかくの新聞販売店でした。

 九州の山の中から出て来て、反抗期も経験せず、童貞の私にとって「新聞販売店」はあまりに刺激的で、手に負えず、武蔵小山は三軒目でした。

 一軒目は板橋区で、日本刀を持ち出してきては、刀を抜いて私達に見せつけるのがここのおやじで、純真な私にはそれが脅しなのかなんなのか見当がつかず、ただ恐怖でした。

 この店で働いているのは、大学生、大学をドロップアウトした人と、「専業」と呼ばれる新聞配達でメシを食っている人などがいました。その中でも私が今でも覚えているのは、いつもスカーフを首に巻いておしゃれなイケメンおじさんです。

 ある日いつものように早朝販売店に行くと、このイケメンおじさんが店の外の端っこの方で誰かと真剣な表情で話していました。どういう訳かこのシーンをはっきりと覚えています。

 そのとき傍にいたドロップアウトの先輩が「また誰かの女に手をだしたんだろ。」とあっさりと言いました。そう言えば、イケメンおじさんと対峙しているのはヤクザっぽいようでした。

 どれくらいたってからでしょうか?ある朝配達が終わってから、私はこのドロップアウト先輩のアパートに行きました。そして、

「ここをやめようと思うんですけど、どうでしょうか?」

「そうだな。君にはここは合わんだろうな。」

ドロップアウト先輩の返事。

墨田区

私は早速本社にその旨電話し、次に行ったのが墨田区曳舟駅の近くにある販売所でした。この販売所のオヤジは刀を振り回すようなヤクザみたいな人ではなく、配達が終わってみんなで食事しながら、奥さん自慢が始まり、私達?童貞を前にして、

「俺たちは今でも毎週ラブホテルへ行ってるんだよ!」

などとぬけぬけという人でした。このオヤジは顔がテカテカのちびで、奥さんはオヤジよりちょっと大きく小太りで、オヤジがラブホテル自慢をするたびに大きな奥さんの上にちょこんと乗るオヤジの姿を想像してしまうのでした。

 この奥さんが出す朝食は決まってご飯に納豆と漬物だけで、九州育ちで納豆を食べたことのない私は苦労しましたが、納豆に生玉子と刻んだネギとからしそれに醤油をかき混ぜ食べました。人間慣れる物ですね。

武蔵小山

 さて、何が原因かは私も覚えていませんが、この墨田区の販売所もまもなくやめ、ついにTさんと会った武蔵小山の販売所に来たのです。ここもなかなかの所でした。

 だって、販売所のオヤジ一家が夜逃げしていなくなったんですから。それで急遽やって来たのがチンピラみたいで、どちらも悪そうな子分が二人とヤンキー姉さんみたいな奥さんのような愛人のような女性というメンバーで、時がたち色んな経験をしていたとは言え、やはり怖かったですね。

 販売所がこんな状態で中で働いていた人間の入れ替わりも激しく、私もだんだんやる気をなくしていました。それでも、K大学の卓球部で活躍していたTさんは体もがっしりし、このチンピラグループを恐れない態度に、私は尊敬の念を抱いていました。

 Tさんあなたはよく私を販売所近くの卓球場に誘ってくれましたね。田舎の友達の家に卓球台があり、そこでやった経験があったので、Tさんは上手だとほめてくれましたね。これは私にとって本当にほっとできる貴重な時間でした。

 自分の田舎の北海道で体育の先生になることを目指して勉強しておられたTさん、きっと生まれ育った所で先生になられ、今頃は退職なさってお孫さんたちに囲まれ幸せな日々を送っておられると思います。

 Tさん、覚えておられますか?ある日あなたは試合に履いていく靴下がないと言って私のを借りていかれました。もちろん私は喜んでお貸しし、翌日あなたは返してくださいました。

それから私達は別々の道を歩み、40年以上の時が経ちました。体も心も屈強だったあなたはきっと立派な人生を歩まれたことでしょうね。

 実はTさん、あなたが返された私の白い靴下にはあなたのおみやげがついていて、今日まで私とともにありました。へたれの私はへたれた人生を送り、流れ流れて台湾にたどり着きました。

 へたれに40年間付きまとってくれたあなたの置き土産 ‘’水虫‘’ (中国語では ‘’香港脚‘’ と言いますが、)が上の写真の薬を服用したら、あっさりとなおりました。

 治ったら何故か当時を思い出し、こんなものを書いてしまいました。あなたがこれを発見してくださったらなと思います。それではさようなら。

 

45歳で海外起業に挑戦 in 台灣 №:13

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基地

「四平街ママとの学習の日々」

仕入れー日本」

「国道16号沿線」

 日本での私の住所は「神奈川県座間市」で、その後に「相模が丘」とつづく。それに家の場所は相模原市との境界近くで、最寄りの駅も「小田急相模原駅」なので私には「座間市民」という意識はほぼない。というより、(「なんなら」最近よく聞くこの言葉、気になる。)相模原市民?というわけでもない。

 九州のど田舎から上京し、何度も引っ越しし、最後にここに家を建てたが、東京へ出勤し寝に帰るだけの生活。子供もいないので地元の催しに参加したこともなく、家を建てて確か10年で台灣と日本の往復生活が始まったので、なおさらここに根付く機会もなくなった。

 商売を始めたら、さらにここは家というより事務所、いや基地のようなものになった。朝獲物を探しに車で出かけ、夜満タンの荷物を載せて帰って来、夜中まで獲物の処理をして寝るのである。

 そしてまた朝になったらまず今日のルートを考えつつ近所のセブンイレブンの駐車場にはいり、朝ご飯を調達し、運転担当の私としては車を走らせながら食べたいのだが、女房は5分で済むんだから止まって食べようという。東京へ向かう場合は時間が読めないので運転しながら、サンドイッチを頬張ることが多かった。

相模大野駅

 NO:12で町田と八王子のことを書いたが、この国道16号ルートには他にも町田の隣の相模大野駅がある。新宿から小田急の一番速い電車だと町田の次に止まるのがこの駅で、所要時間40分ぐらいの完全な東京通勤圏である。またここで小田急江ノ島方面と箱根湯本方面へと別れる分岐点なのだ。

 朝のラッシュは相当なものだろうと思う。私は会社の車で出勤していたので、幸いその苦労は味わわずに済んだ。会社の車を使っていたのは私が偉かったからではなく、仕事上どうしても車が必要だったというだけだ。それどころか私は中途入社のぺえぺえーだった。会社も小さかったが、だから45になったときなんの未練もなく辞めることが出来たのだ。

 さて相模大野には伊勢丹デパートがある。「なんでこんなところに伊勢丹が?」と私はいつも不思議に思っていた。中に入ってみても新宿ほどの派手さはないし、少なくとも貧乏人の私は魅力を感じず、仕入れにもつかえなかった。

「安売り店 T ]

 ただ駅ビルのなかにはテナントが入っていたが、数は多くなく時間が余ればちょっと寄ってみるぐらいのところだった。それよりも実は町田と16号のヨーカドーとイオンモールの間に一軒ぽつんと、大きくはないが私たちにとっては重要な店 T がある。私の家から町田により、夜7時で閉まるこの T を通り、最後にフードコートも充実しているヨーカドーとイオンモールで閉店ぎりぎりまで粘るのだった。

女房が今でも使っているこの T 店にはあちこちの有名店で売り切れなかったようなメーカー品なんかも置いていて、すごく安く買えるのだ。100円200円から500円、高くても1000円か2000円ぐらいの商品がほとんどなので、一般客でも結構たくさん買っているのだが、私達が買うのはその比ではなく、ほかの人を待たせるのは悪いし、またあまりの多さに好奇の目で見られるのも嫌なので、なるべく客が並んでいない時を狙って支払いをしていた。

 レジのすぐそばのドアーを出たところが駐車場なので、荷物を運ぶのも楽だったし、店員さんも余計なことは一切聞かなかった。ここのトイレは店のなかではなく、駐車場に面した店の建物の外側にある。車を停めてから私はいつもトイレを済ませてから店に入るのだが、ある日私はここである人物と遭遇するのだが、それはもっとあとで話すことにする。

45歳で海外起業に挑戦 in 台灣 no:12

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街角

「四平街ママとの学習の日々」

仕入 in 日本」

「町田から八王子へ」

いい仕入れをさせてもらっていた町田の店ではもちろん店員さん達とも顔見知りになり、実際に店を閉める前にはその情報を私達にくれ、なおかつ八王子に本店があることまで教えてくれた。

 私達の家がある神奈川県座間市から東京都の八王子市までは高速道路がなく、一般道の国道16号を走り大体1時間ぐらいの距離だ。

 高速道を最寄りの東名高速道路横浜インターから1時間走れば富士山のある御殿場までいけるのだが、一般道を1時間走るのは運転がうまいとは言えない私にはちょっと辛かった。しかも町田の贔屓の店から紹介してもらったその本店は私達の予想とは違った。

 町田の店は店頭のラックに売り出しの品物をたくさん吊るしていた。その中には本当にお値打ち価格の物が混じっていて、値段と品質を見比べながら二人でよく「やったね!」とほくそ笑んだものだ。

 もしこれが2,3千円のものだったら私達の手に入る前に売り切れていただろう。ところがそれは、ケチな私個人として、あるいは一般庶民にとっても微妙に手を出しにくい価格帯だから、売れずに残っていたんだろうといつも感じていた。私達はこの掘り出し物をサイズも色もあるだけ全部買い占めた。

 一般の店でこういう買い方をすると、これは私たちが何度も経験したことだが、馬鹿な店員は決まって

「こんなに買ってどうするんですか?」とか

「何かやってるんですか?」などと立ち入った質問をする。はっきり言ってこんなことに答えたくはない。時間だってかぎられているのでさっさとにこにこ現金払いで済ませて次のところへ向かいたいのである。

 女房は「私は兄弟が多いので買ってあげるのよ。」とか

「私達は会社をやっているので、これは従業員用なのよ。」などとしれっと答えたりすることもあったが、私にはそんなに臨機応変さはない。女房だって車に荷物を積み込んで走り出してからよく、

「ばっかじゃないのあの店員!売れればいいじゃんね!なに余計なこといってんだろうね。」などと吐き出したりすることもあったが、この町田の店員さん達は教育がいいのだろう、一言もそんなことは口にしなかった。

 そして八王子の本店に行ってみて分かった。ここは町田の店とは全然違い、店頭にもバーゲン品など並べていない、空気のぴーんと張ったブティック然とした店舗だった。つまり、ここで定価で売り切れなかった服をあまり安い値段で売ると、以後定価で売りずらくなるので、商圏の違うちょっと離れた町田で捌いていたのだろう。八王子の客が電車1本で行ける新宿へ出かけることはあっても、町田へ行くことはほぼないので本店のイメージを壊さずに済むのである。

 それで、ここでは町田店で得られたような喜びは得られなかった。ついでに駅前の有名デパートなども覗いてみたが使えなかった。一般道を1時間も掛けて来る労力に見合った収穫は得られず、八王子は1,2度で行かなくなった。

国道16号

 国道16号というのは東京を取り囲む神奈川、埼玉、千葉3県を結び沿線には多くの人が住む大幹線道路で交通量が多い。

 仕入れを終え台湾ヘ帰る時、それぞれ20キロ以上詰め込んだかばんを二つタクシーのトランクに放り込み、相模大野駅へ行く。

 ここで片道1人3000円のリムジンバスのトランクにかばんを預ければ、あとは席に座って寝ていれば成田につく。バスは町田で客を拾ったら16号を通り成田へと向かう。

 ただし16号の渋滞解消を目的に造られた保土ヶ谷バイパスは今や関東一の渋滞地点となり、前回利用した時もやはり大渋滞で、あと5分遅かったら台湾のタイガーエアーに乗り遅れるところだった。

 町田もこの16号沿いにあり、JR横浜線の町田から八王子方面へ一つ目が古淵駅で、ここにやはり16号に面してイトーヨーカドーとイオンの二つのスーパーマーケットが並び.競い合っている。

 またイオンの隣にはDIYの大きな店、そして16号を挟んだ反対側には、最近台灣1号店が西門町という繁華街にオープンし、入場規制するほどの客が押し掛け話題となっている、ドンキホーテも店を構え、まるで巨大なショッピングモールのようである。

「爆買い」

 ここは私たちにとって重要な草刈り場の一つだった。

 ヨーカドーもイオンもテンポ面積が大きく、独自ブランド服の種類、量ともに豊富で、それにテナントの数も多く、いつも沢山買うので一度では運びきれず、私が駐車場とフロアーをカートを押して往復するのだった。

 コロナの前までは中国人の「爆買い」が話題だったが、実は私達はもっと早くから爆買いしていたのだな、と今になって思う。

 

名称

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平安

中尾明慶さんのユーチューブをよく見る。親子でドライブもよかったし、ゲームセンターでクレーンゲームするのも面白かった。

 ただ調布のタイトーゲームセンターで親子でクレーンゲームに興じるのだが、中尾明慶さんが何回も「UFOキャッチャー」と連呼するのが気になった。「UFOキャッチャー」はセガのクレーンゲーム機の名称でタイトーは別の呼び方だったと思う。

 動画の中には撮影許可を貰ったという字幕が出、係員とのやり取りもあるので、アルバイトだか社員がそばにいるようだった。バイトならまだしも社員だったとしたら「UFOキャッチャー」と連呼され「何回もUFOキャッチャーって言ってんじゃねえよ!」と内心思っていたんじゃないかと、ゲームセンターの店長経験のある私は考えた。とは言え、私もやはり「UFOキャッチャー」と呼びたい。

 時代とともに呼び方も変わる。中でも私が一番気になるものが「ウォシュレット」だ。20年以上台湾と日本を行き来している間に、いつの間にかこう呼ばなくなったらしい。正解は「シャワートイレ」ですか?もしそうだとしても、私の中ではまだ定着していないし、これからも私の中では「ウォシュレット」であり続けると思う。

 そうそう、「スチュワーデス」もそう。いつからこうなったか知らないがこれはもう死語ですか?確か今は「キャビンアテンダント」ですか?「スチュワーデス」も決して簡単な発音ではないけど、「キャビンアテンダント」も長すぎるよね?

 飛行機の中で彼らを呼ぶときは日本語には

「すいません」

という便利な言葉があってよかったと思う。デパートとかだったら伝家の宝刀「すいません」か「お兄さん、お姉さん」だろうか?英語はどうなんだろう?

 台灣に来たばかりの頃、店員さんとか知らない人を呼ぶ時「ハロー」と言っているのを聞いてびっくりした。

 最近台湾でもこの「UFOキャッチャー」が大流行している。「すし」「弁当」が世界に認知された今、日本発の「UFOキャッチャー」も世界共通語に認知されるのか?

引っ越し

引っ越しました。引っ越しというものはいつだって大変です。物を運ぶのはもちろん引っ越し業者がそのほとんどをやってくれます。でも時間をかけて自分をフィットさせて来た巣をすてて、また一から新しい巣に自分のすべてをフィットさせなければならないのですから。
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