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45歳からの海外起業奮闘記 in 台湾

かきまぜろ 水底を!日が差せば一粒一粒がかがやくだろう

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話しながらコーヒー豆を挽くって簡単じゃないぜ!

 
 
 
 
 
 

 私の店が入っているビルの隣にあるMRT景美駅は私にはなくてはならない場所だ。ここで私は大小の用を足すし、1日1万歩が目標のウォーキングをやっているし、コンコースの壁に設置してあるコンセント付きのWIFI台の上で携帯のグーグルキープにメモしたり(ウォーキング中にブログやユーチューブのアイデアが良く浮かぶ。)、YUTUBEを視聴したりしている。

 ある日ここのトイレでおしっこをしていると隣の男が、私の自慢の小物を覗き込むみたいに仕切り板から顔を突き出し[おじさん!10円くれないか?]と台湾語で話し掛けて来た。在台湾20年のわたしは台湾語といわれる方言は今でもほぼ分からないし話せないが、日常しばしば使われるものは聞き覚えて知っている。この男の言っている言葉で私が聞き取れたのは「おじさん」と「10元」で、それに彼の服装とこれまでの経験を足せば理解はできた。こういう場合の私の逃げの一言「私は日本人だ。台湾語はわからない」と言うと、その男は黙った。

 前立腺肥大のせいですっかりキレの悪くなった私はいつまでも水滴を垂らしながら、「10元か50元ぐらいあげてもいいかな、、、」などと考えている時、 後ろの小便器の方でパチーンと鋭い音がした。頭だけ回し振り向くと、さっと消えていく手の影が見えた。

 私がトイレに入ってくる時確か入り口近くの手洗い場に人がいた。私と金をせがんだ男との会話を聞いたこの人が、一言も発することなく石板の棚の上にたぶん10元か50元を叩きつけたのだろう。いつの間に用を足し終えたのか、その音を瞬時に理解し鋭く反応し、石板の棚の上に残された物を掴みながら小さく礼を言い、ズボンにシミがつくのを恐れいつまでも小物を振り続ける私を残して、隣の男は消えた。

 その小さいけれども鋭く高い音は[10元ぐらいやったっていいだろう、このクソケチ日本人が!]と抗議しているように私に聞こえた。

 トイレを出、改札の前を通り過ぎようとする時、まだ台湾に来てまもない頃、基隆夜市で目撃した出来事を思い出した。

つづく

45歳で海外起業に挑戦 in 台湾 no:8

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I know who you are


四平街ママとの商売学習の日々

 

 「仕入れー台灣から日本へ」

 

  四平街ママのところへ何度も通ううち次第に打ち解けて行き、彼女は服のことだけでなく仕入れについて、台北駅後ろ、市民大道の向こうに日本の女性服卸の店が集まる場所があり、そこで長年培った信用で後払いで日本から届いたばかりのスペシャルな服を誰よりも早く仕入れられるのだと教えてくれた。

 

「四平街ママの辛い過去」

 しかしそれは後のことで、この商売を始めた頃は知り合いに連れられ日本へ行き、ひどい事にホテルを出て仕入れに向かう途中で急にみんないなくなり、右も左もわからぬ外国の街中に一人放り出された事もあったそうだ。

 

「パッキング」

 私達もそうだが、台湾から日本へ仕入れに行くときは空の旅行カバンで日本に入国、逆に日本から台湾へは、仕入れた物を航空会社規定の20キロいっぱいまで詰め込む。詰めきれなかった物は馬喰町にある台湾人経営の運送会社にキロいくらで料金を払い運んで貰う事になるので、少しでも多く詰めようとする訳だ。

 それでいつも大体2、3キロオーバーするのだが、結果は航空会社やカウンターの担当者によって違う。1キロでも超過は許されなかったり、多少は多めに見てもらえたりする。前者の場合はもちろん他の人の邪魔にならないところでカバンを開け荷物を減らし、再度カウンターに持って行き測り直す。抜いたものはこの事態を予想し準備しておいた折り畳みのバッグに入れ機内に持ち込めばいい。

 

「税関突破作戦!」

 問題は台湾への再入国。入国審査を無事に通過しなければタックスを払わなくてはならない。超弱小経営の私達は極力それを避けたい。

 

 そこで桃園飛行場に飛行機が着きパスポートコントロールは問題なく通過した後、私達は待ち合わせ場所を確認し、お互い他人の振りをし、別行動を取る。税関で捕まった場合、被害を少しでも減らそうという考えからだ。そしていつも私が先に荷物受け取りのターンテーブルに着くと、私は税関のゲートからは遠いところに陣取り、女房は近くで待機するのだが他人を装い目を合わせることは決してしない。

 

 隠し窓のようなところから税関の職員が監視しているのを恐れるからだ。私は荷物を気にしながらもちらちらとゲートの方を観察する。大体ターンテーブルから近いゲートに列ができ、遠い方は誰も並んでいないことがよくある。

 

「作戦失敗」

 ある日私はいつものようにターンテーブルから荷物をカートに載せると、捕まるのではないかという恐怖心を和らげるため、「私は乗り継ぎのバスに間に合わせようと急いでいる客」と自分に言い聞かせ、誰もいないゲートにカートを推して突進し、片手で掴んだ赤い日本のパスポートをかざしながら検査官の前を内心ドキドキしながら足早に通過し、出口に出て女房をまった。

 

 なかなか出てこない女房をヤキモキしながら待っていた。一回出たらもう戻れないのでじっと待っていたら女房がやっとカートを推しながらこちらにやってくるのが見えた。

 

 そして彼女は「検査官に捕まっって鞄を開けるように言われ、鞄いっぱいの服を見た検察官に売り物かどうか聞かれ、品物があまりにも多いので自分用だとは言えず、サンプルだと言ったところ、服の裏側にサンプルという大きなハンコを押されてしまった。」とうなだれていた。

 

 実は私は前もって長い列ができているゲートは避け、空いているところに行くようにと注意していたのだが、変に気の小さい彼女は誰もいないところではなくわざわざ時間のかかる人の多い方へ行ってしまった。人に紛れられるとでも思ったのだろうが、どこかの隠し窓から目を光らせている検査官からすればバレバレだろう。

 

厚切りジェイソン

 さて私が持ち込んだものは幸に無事だったが、女房の方の品物は、裏地とはいえサンプルのハンコを押された服はもちろん捨てる訳にはいかず、やはり店に並べていた。

 

  するとびっくりしたことに、商品が良かったのだろうか、お客はサンプルスタンプが押されている服をも買っていくのだった。

 日本人の不思議な行動に「Why Japanese people!?]と突っ込みをいれる厚切りジェイソンをまねて「Why taiwanese people!?]といってみよう。

 

 私は接客できず、女房がやっているのでいくらで売ったかは分からない。ただ私は「サンプル」というスタンプがでかでかと押された服を日本人の客は果たして買ってくれるのだろうかと考えていた。

 

 

 

45歳で海外起業に挑戦 in 台湾 no:7

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泥棒さん 入れませんよ!


四平街ママとの商売学習の日

 

  私達が四平街ママと出会った頃には、彼女は台北で誰にも負けない仕入れルートを確立していたし、いい客も掴んでいるようだった。事実彼女の店を訪問した時、お医者さんの奥さんが友達を連れて買い物しているのを目撃したことがある。

 

「自分達にないものを持っている彼女に私は嫉妬ばかりしていた。」

 

 ある日彼女と彼女の友達と私達夫婦4人で彼女の店の近くのレストランで食事をした。その時私自身は何を注文したか覚えていないが女房がベーコンのタップリ入ったホワイトソースのパスタを食べているのを見て、「よくそんなカロリーの高いものが食べられるね。太るから私は食べられない。」と彼女は呆れた様に言った。友達もうなずいていた。

 ブティックのママらしくあるために彼女は食事の面でも自分をコントロールしているのだなと思った。

 四平街はオフィス街でもあり大きくはないが朝市もあるので彼女は出勤前のOL客を掴むために朝7時過ぎには店を開け、夜7時には閉店してしまうそうだが、その行き帰りはタクシーを使うらしい。成功したブティックのママは優雅だなと思った。

 

 貧乏性で東京で1度もタクシーを使ったことのない私は通勤でタクシーなど考えられず、これも羨ましいと思った。ただ台湾生活に慣れてくるとタクシーがそんなに贅沢なものではないことがわかってくる。私でもたまには利用することがあり、ずいぶん安いなと感じ、こんな稼ぎで生活ができるのかとさえ思った。

 

 優雅そうに見えた彼女の生活振りだがしっかりしているところもあった。ある日私達がマクドナルドで遅めの朝ごはんを取り、食べきれなかったフライドポテトの袋を持って四平街ママを訪ねた。持っては来たものの時間が経つとしなしなになるのでゴミ箱に放り投げようかと考えていた。それを知った彼女は「捨てるんだったら置いていって。後で食べるから。」と言った。

 

使うところには使い、抑えるところは抑える。メリハリがちゃんとしてるんだなと感心した。

 

 お茶目なところも彼女にはあった。

台湾ではビルの1階部分を歩行者が通れるようになっているところがあり、これを「 騎樓」という。ここは雨の日は濡れずに済み、誰でも歩ける歩道になり、犬を引いての散歩道でもあり、したがってたまにではあるがその地雷を踏んでしまう可能性のあるところでもある。またオートバイの駐輪場でもあり、小物、服、フルーツなどの小商の場所にもなり、偽物と本物の乞食と坊さんが物乞いする仕事場でもある、実に不思議な空間である。

 そしてここを歩く時は、絶対に携帯をいじりながら歩いてはいけない。まるで個性豊かな台湾人さながら古いビルほどそれぞれが高さを競い合ってでもいるかのように歩道の高さが違いデコボコしているからだ。

 四平街ママはある日ある「騎樓」を歩いていて小物売りが目に留まり、気に入ったものをいくつか買ってきたと言って見せてくれた。髪飾りなどの女性用の小物で流石に彼女が選んだだけあって店の雰囲気によくマッチしていた。

 しかも彼女はそのうちの一つ100元で買ったものを50元乗っけて売ったというではないか?日本商品を扱うブティックで露端で買ったものを売っても大丈夫なのかと心配する私達に彼女は

 「どこのものでもいいものは売れるのよ。」

 と笑いながら言った。

 

45歳で海外起業に挑戦 in 台灣 no:6

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ちょっと一休み!


四平街ママとの商売学習の日々

仕入れー台灣から日本へ」

 

  四平街ママのところへ何度も通ううち次第に打ち解けて行き、彼女は服のことだけでなく仕入れについて、台北駅後ろ、市民大道の向こうに日本の女性服卸の店が集まる場所があり、そこで長年培った信用で後払いで日本から届いたばかりのスペシャルな服を誰よりも早く仕入れられるのだと教えてくれた。

 

 「後払いで仕入れ」できたらこんなにいいことはない。まだ商売が軌道に乗らず日本へ仕入れに行くたび資金の準備に苦労していた私達は本当に羨ましいと思い、台北の卸へ行ってみた。

 

 重慶北路という通りに面した地下1階地上2階たてのビル全体がほとんど舶来品を扱っていて、中でも日本の婦人服の店が多かった。特に2階は同じ日本製でもそれぞれに特徴をだし競い合っていた。ここに四平街ママも仕入れをしている店もあった。

 

 それに私達の店があるビルの「ムーミンママ」と私達が呼んでいたオーナーもやはりこの中の別の店で買っているという情報を掴んでいた。

 

 他店の情報は多いほどいいし、自分達のはなるべく漏れない方がいい。私達の店があるビルで一番長く日本の婦人服を売っている隣の店は日本人の私に見られ真似されるのを恐れたのか、茶色のカーテンで完全に窓を覆っていた。

 

  そんなことをすれば客に商品が見えないのではと私なんかは思うのだが、女房が聞いた話によると彼らには大口の客がたくさんついていていい商売をしているという。事実、彼らが日本の仕入れから帰ってきた日には、前もって常連客には知らせていたのだろう、薄いベニヤ板の壁を通して賑わいが伝わって来たのを嫉妬と悔しさを感じながら聴いていたのを思い出す。

 

 さて台北駅後ろの日本婦人服卸のビルにはその後も何回も通い、台北の客の好みや売れ筋などを必死に研究しようと試みた。ある時気に入った服があり試しに仕入れして見たことがある。

 

 するとなんとうちの客にその服の仕入れ値を言い当てられてしまった。台北の卸では一般客でも入れるし買う事もできるというのを後で知った。それからは台北仕入することはほとんどなくなったし、私達の日本での仕入れの仕方にも影響を与えた出来事だった。

 

 

 

 

 

45歳で海外起業に挑戦 in 台湾 no:5

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店造りについて討論中!?


四平街ママとの商売学習の日々

スペシャルな店造り」

  

 四平街ママの店の壁はむき出しのコンクリートか白っぽい色のクロスだったと思う。ところが、私が見て回った店の内装はどこもニスでてかてかの薄茶色の板を使い、高級感をだしていた。私が探し出した景美の店もやはり前の経営者が壁や棚も木目調で統一していた。

 

 日本でも内装に茶系の木を使い高級感、重厚感を演出している店はもちろんいまでもあるし、とてもいいと私も思う。

 

 私の店のあるビルの中には日本の女性服を売る店がありそれぞれに工夫して頑張ってブティックらしくはしていた。ただビルの共用部分はあまりにふるく、かなりの数の空き店舗はまるで幽霊屋敷のようで、知り合いの多くからは「あそこはやめたほうがいい」と反対されたぐらいだった。

 

  私は業者に頼んで壁や棚を白く塗り替えてもらった。ビル内の人はそれを冷ややかな目で見ているのが感じられたが、私は気にしなかった。白にしたことによってくすんでぼんやりしていた店内が明るくなり、どんな色の服も映えるようになったからだ。

 

 四平街ママから学んだのは服のことだけではない。店内やショウウィンドウのレイアウトや飾りつけなども店に行く度刺激を受け、私の中で少しずつ何かが変わりつつあった。道を歩いていてブティックの前を通るときにも、明らかに頻繁に服、小物、飾りつけなどに反応するようになり、それがまた自分の店内に反映されていった。

 

 更に街を歩いているとよくマンションの前に家具や小物などを捨ててあることがある。それにも私は自然に反応してしまう。日々鋭くなっている私の感覚が「使えそうだ。」と感じ取っているのだ。これらを使ってよくショウウィンドウの飾りつけをしたものだ。そしてお客もそれに反応してくれた。

 

 

45歳で海外起業に挑戦 in 台湾 no:4

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夜市に連れてって!


四平街ママとの商売学習の日々

 

 「特徴があるものは高くても売れる」

     この言葉は台北の他店舗の服を視察する時にも役にたった。そうでなければ、何を見て良いかもわからぬまま、いたずらに時間を浪費し何も成果が得られないで終わってしまう。

 

 特徴がある、それを四平街ママはスペシャルという言葉を好んで使った。中国語を必死に聞き取ろうと身構えている私にはそれが英語の special とは聞こえず、何回か聞いてやっと理解した。

 

 服についてのスペシャルとは、デザイン、柄、色、カット、素材など色々な要素が考えられるが、ある服のどこに、何にスペシャルさを感じるかは人それぞれに違うと思うし、それがまた各店の強みになる。特徴のあるスペシャルな服、つまりそれは特徴のあるスペシャルな店ということになる。それがなければ生き残るのは困難だろうし、生き残れたとしても大きな稼ぎを生み出すことはできないだろう。

 

 今だからこんな風に冷静に過去を振り返り”能書き”を言えるが当時はそうではなかった。毎日必死だった。暇を見つけては台北市内のブティック、デパート、スーパー、朝市、夜市などを見て回った。

 

 台湾のお客も結構直接的に「もっと高級な服を持って来い」と言ってみたり、「どこどこにはここよりもっと奇麗な服がある」だの、「同じものをもっと安く売っている」など教えてくれたりもする。「特徴のある服」というキーワードを心に深く刻み込んだ私は服に対する感受性がまだまだ不足していることは十分わかっていたので、素直にお客の声を聞き入れ調査に出かけた。

 

 私達は2か月に1度、最初は9日間(この日数に関しては私は日本の滞在費と台湾の店を開けておくロスを考え大いに反対したが女房は何故か変えようとしなかった。)その後1週間日本へ仕入れに行っていたので、台湾では休まないようにしていたが、日曜日だけは夕方6時ごろシャッターをおろした。

 

 それで店を調査に行くのは日曜日の夜が多かったし、ついでに有名な台北市新北市(その頃は台北懸と呼んでいた)、基隆などの夜市を調査しつつ、各夜市の名物の食べ物も堪能したりもし、ささやかな息抜きにもなった。

 

 

 

 

 

 

45歳で海外起業に挑戦 in 台湾 no:3

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勉強 そして上品な烏龍茶 めしあがれ!


四平街ママとの商売学習の日々

 女房が台湾人というアドバンテージはあったにせよ、日本での商売経験が一切ない私たちが異国の地台湾の首都台北でこれまでブティックをやってこれたのは彼女のおかげだと思う。

 

 四平街ママのところへ通い始めたのはいつ頃からだろう。朝市での商売に見切りをつけ、景美に店を持ち、中国語学校にも行かなくなった、1年過ぎぐらいのころだろうか。

 

 そのころ私達が住んでいた女房の実家のある南港は台北の東部に位置し、四平街はほぼ台北の中央で、私達の店のある景美は南部だった。どのくらいの頻度で四平街ママの店に立ち寄ったかはもう覚えていないが、306というバスで南京東路を通り南京松江路口で下車したらすぐ近くだった。

 

 何回も通ううちにだんだんと営業状況を話してくれた。近所の会社に勤める客の出社前の時間を狙って朝は8時ごろにオープンしていること。台湾の会社は日本ほど残業が多くないので夜は7時には閉店すること。

 

 台北駅の裏のほうにある問屋で仕入れていること。メインの問屋とは緊密な関係を保ち、日本仕入れから帰ってきたときは1番に電話をもらい、ほかの店が買い付けに来る前に良い商品はすべて押さえてしまうこと。そうすることによって台北の他の店にはない特別な服を自分の売りたい値段で売れること。

 

 「特徴があるものは高くても売れる」

 

 このことは高い服が怖くて仕入れられずにいた私達にはとても重要な情報だった。