かきまぜろ 水底を!日が差せば一粒一粒がかがやくだろう。
「地を這う男ー景美朝市」
「トイレを出、改札の前を通り過ぎようとする時、まだ台湾に来てまもない頃、基隆夜市で目撃した出来事を思い出した。つづく」
と前回を締めくくったが、
続かず、寄り道させていただきます。
これは私が景美に女性用衣服小物販売の店(「ブティック」と一思いに表現したくてもできない有様)オープンする前、台北と台北懸各地の朝市で日本で仕入れた物を売って暮らしていた頃の、つまり目にするすべての物がまだ新鮮で刺激的だった頃のことである。
私はトイレか買い物でどこかへ行って来たのだと思う。女房が一人で店番をしている場所へ戻ろうと、少し広い通りからちょっと狭い景美朝市で一番人が多くごったがえしている通りへ入りかけた時、急に私の前の人垣が割れた。
そして、目に飛び込んできたのは、地べたを這う男の姿だった。肌はどす黒く髪はぼさぼさで両手と両足に薄汚れて黄ばんだ厚手のサポーターを巻いたパンツ一丁の男が四角い木で出来た魚箱のような物を押し、這いながら私の方へ向かって来ていた。
日本ではあり得ないこの衝撃の光景に驚いた。
それと同時に、暮れのアメ横並みに混雑する人混みの中を匍匐前進する男の妨げにならないよう避けつつも、買い物モードの真剣な表情を崩すことなく前へ進み、男の驚異的なパフォーマンスに何の反応も示さない台湾人達にも驚いた。
以後も何回かこのパフォーマンス男を見かけたが、訳あって私はこの景美を出たり、入ったりし、20年たった今はもう見かけない。彼がどうなったかは知らない。
「基隆夜市」
さて基隆の話をしよう。ここは今は基隆夜市で有名だが、日本統治時代には日本軍の軍港が置かれ、日本からの物質がたくさん入って来ていたようだ。日本軍が去った後も日本の女性服や小物で商売している店が残っている。という情報をお客から教えてもらい、視察に来た。
台北から基隆へは電車とバスの交通手段があり、最初はよく分からず電車を使ったが、後からは本数が多く、遅くまで運行しているバスに乗るようになった。所要時間は40分ぐらいだ。
何度もここに通ううち、台北とその周辺の夜市の中では私の一番好きな夜市になり、はしごする食べ物の屋台の順番も次第に決まっていった。だがその日はよっぽど腹が減っていたのか、それともこの夜市に通い始めのころだったのかもしれない。
「忍者男出現」
駅のほうから歩いて来て、基隆夜市の入り口付近の道の真ん中で営業している麺類の屋台に目が留まった。4、5人掛けの木の椅子に座ったカップルがちょうど立ち上がりお金を払って立ち去ろうとしていた。4、5人掛けの椅子に4人はちょっときついから、「ちょうどよかった。」と思ったその時だった。
髪の長い黒づくめの男が忍者よりも早く忍び寄り、屋台の台の上のカップルが使った箸を掴むや否や、どんぶり内の残された実と汁を人間業とは思えないようなスピードで口に放り込んで去って行った。
電光石火のスピードで演じられたパフォーマンスを気付かぬ振りをして洗い物をしていた店主の表情はとても緊張しているように見えた。
「お客さんが帰ってしまわぬうちに、早く食べて消えてくれ。」とその表情は言っているように思え、そしてきっとこれがはじめてのことではないのだろうとも私は考えた。
45歳で海外起業に挑戦 in 台灣 no:10
「四平街ママとの学習の日々」ー「仕入れ、台湾から日本へ」
「満足」という名のおばさん
女房のおばさんは義母の妹で8人兄弟の末っ子で、「子供はもうこれで十分」ということで「満足」と名付けられたというのが、女房の実家に遊びに来た時のお決まりの笑い話の一つだったが、それが本当なのかどうかは私は知らない。そんな彼女は、子供が多すぎたのだろう、小さい頃に養子に出され、別の家で育ち、そして大きくなった綺麗な彼女は板橋というところに住むちょっとした資産家と結婚した。
この金持ちの旦那とおばさんが一度、私達の店に遊びに来た。どこで覚えたのか知らないが、「構わない!」と「あたまコンクリ!」という日本語をこのおじさんは連発し、笑いをとろうとした。
それから私達夫婦を駐車場に停めた車のところまで連れていき、トランクのなかに入れてあった札束を掴んで私達に見せた。その札束の厚さにも驚いたが、それよりもそんなにたくさんの現金を駐車した車の中に置きっぱなしにしたことにもっと驚いたし、何のためにこんなことをするのかも理解できなかった。
金持ちというのはそんなものなのだろうか?
私達の日本への仕入れに、一度このおばさんも同行したことがある。彼女にとっては観光旅行であり、私達にはいつもの必死のしごとである。そしてあっという間の1週間が過ぎ、私達の鞄にはこれでもかといわんばかりに商品を詰め込み、おばさんの鞄には自分で買った服の他にも私達のも少し入れてもらった。
さてこの仕入れ旅行の最後の関門である台湾の税関ゲートを私達は無事くぐり抜けたのだが、なんと初めてのおばさんが一発で引っ掛かってしまったのだ。このことは、税関の人達はどんな人物に注意をしているのかを私に考えさせてくれた。
NO :9で、四平街ママもそうであるように台湾から仕入れに来ている人たちはチームを組んで、日本での様々なハードルを乗り越えているという話をした。NO:8では私達の「税関突破作戦失敗」を書いた。
実は私達はその前に、四平街ママの税関突破方法を聞かされて知っていたのだが、それは私達にはとても真似できるものではなかった。
その方法というのは「税関職員買収」だったのである。この話を聞きながら「お金を差し上げますから、見逃してください。」と税関を通る時に話しかける自分を想像してみたが、とても出来るとは思えなかったし、いやそれどころか買収容疑で捕まってしまうだろうと思った。そしてNO:8の「税関突破作戦失敗」へと至る訳だが、外国で商売をやっているといろんなことを経験するものだ。
「 四平街ママと満足おばさん」
日本からの帰り、台湾の税関をひやひやしながら通る度、どうやったら「四平街ママ」みたいに税関職員とのコネがつけられるのだろうと考えてみたが、わかるはずもなかった。ところが「満足おばさん」の事件がヒントを与えてくれた。
二人には共通項がある。分かり易く言えば、二人とも水商売系の仕事に従事している人たちが醸し出している雰囲気に近い物を持っている。そこまでけばけばしく尖がってはいないものの、普通の人にはない”つや”のようなものがあり、「こいつら商売やってんな!」と容易に税関職員に思わせるのだと思う。
台北県(現在は新北市)の新店というところにある、四平街ママのチームの一人の店を密かに視察しに行ったことがある。旦那さんは私とどっこいどっこいのダサいおじさんだったが、奥さんはさすがにしゅっとして四平街ママと同じ雰囲気を持った女性だった。
つまり一般人にはない ”つやつや”の複数の女性達がゲートにやってくれば税関職員だって調べてみようという気にもなるだろう。そうやって別室に連れて行かれた四平街ママのチームは、泣き落とし?色仕掛け?いや、少なくとも電話番号は手に入れ、それをとっかかりに買収が成立したのだろうと私は推測した。
いずれにしろ、私達には真似できないし、ぜんぜんしゅっともしておらず一般人そのものなので、女房さえ私の言うとおり、荷物を受け取ったら慌てずなるべく人の少ないゲートを選べば問題ないし、事実20年間無事だったのだ。
45歳で海外起業に挑戦 in 台灣 no:9
「四平街ママとの学習の日々」
「仕入れ 台湾から日本へ」
「馬喰町」
馬喰町というのは日本一の衣料品関係の卸の集積地である。その真ん中を貫くように江戸通りが通っている。海渡はこの通りに面して卸街のほぼ中央に建っている。毎時に音楽とともに人形が出てくる時計がトレードマークの海渡本部ビル。その周囲にも何棟もの海渡ビルや駐所場も所有する馬喰町一の卸売会社である。
卸「海渡」
台湾で服飾雑貨の仕事を始めて多くの人に「馬喰町に海渡あり」というのを何回も聞かされた。日本のことを外国の人に教えてもらうのは、悔しいような情けないような複雑な感じだったが、この業界で生きていくためには行ってみるしかない。そこで台湾から持参した書類を提出、手続きを済ませ入館証を手に入れた。
入り口で渡されたバッジを胸に付けビルの中へ入ると、そこはまるでデパートのように明るく華やかで、しかもその種類と量の多さに圧倒されてしまった。女房は「ここは日本のデパートにも卸してるらしいよ。」と感心したように言った。そうかもしれないと私も思った。
館内を見て回るとやはり何人も中国語を話している客とすれ違った。一番上の階から各階を見て回り1階まで辿り着くと、スーパーみたいに会計のレジが並んでいて、商品の入ったカートを推し、番号札を手にしたたくさんの人達が病院の待合室みたいな椅子に座って自分の順番が来るのを待っていた。かなりの 盛況ぶりだ。
「海渡は旦那さんが日本人で奥さんが台湾人らしいよ。」と女房がいった。同じ台湾から来て商売を始め、こんな大成功を成し遂げた人の建てたビルを見つつ、お決まりの嫉妬にさいなまれながら自分たちの小ささを思い知るのだった。
とは言えここで私達が仕入れたのはぬいぐるみなどの小物とトートバッグのような手提げ類だけで、衣服に関しては値段的に許容範囲の物で目に適うものはなく、素晴らしいと思えるものは高すぎてとても手が出なかった。 「他の台湾人達はどういう仕入れの仕方をしているのだろう?」と気になったが、それがわかったとてどうしようもないことだとも思った。自分達は別の道を行くしかないのだ。
そしてそうなった。というのは「海渡王国」には
”年100万円(正確な数字は覚えていない)以上買わなければ入館資格喪失”
という厳しいルールがあったのだ。資格喪失してからそれを知り、なんとかならないかとその部署に相談にいったがどうにもならなかった。100万円というと月10万弱。私達は2か月に1回のペースで日本へ仕入れに来ていたので、20万円弱仕入れしなければならず、小物だけでこの金額に達するのは不可能だった。
また女房が言うには、この縛りの対象は台湾人だけで日本人には適用されないらしい。女房の情報がどこまで正しいか分からないが、台湾人の女社長は何故同胞である台湾人の仕入れ客にだけそんな縛りを課すのだろうかと私は不思議に思った。それでもここが好きな(?)台湾人達はチームを組むことでこの数字をクリアしようと考えたのだ。
四平街ママもやはり同じことをした。チームの全員がそれぞれ入館証を得るために手続きする必要はなく、一人が持っていれば他のメンバーは従業員という名目でもバッジがもらえるし、あるいは皆で一緒に行くのではなく別行動で入館証を使い回すというやり方もある。
人に付いて初めて日本へ仕入れに行った時はいじめられた四平街ママは、どうやってかは知らないが、その後メンバーを探しチームを組み、仕入れができるようになった。台湾からここまで来るのに苦労の連続なのだが実はこれで終わりではない。最後の関門が待っているのだ。
45歳で海外起業に挑戦 in 台灣 改編no:8
「四平街ママとの商売学習の日々」
「仕入れー台灣から日本へ」
四平街ママのところへ何度も通ううち次第に打ち解けて行き、彼女は服のことだけでなく仕入れについて、台北駅後ろ、市民大道の向こうに日本の女性服卸の店が集まる場所があり、そこで長年培った信用で後払いで日本から届いたばかりのスペシャルな服を誰よりも早く仕入れられるのだと教えてくれた。
「四平街ママの辛い過去」
しかしそれは後のことで、この商売を始めた頃は知り合いに連れられ日本へ行き、ひどい事にホテルを出て仕入れに向かう途中で急にみんないなくなり、右も左もわからぬ外国の街中に一人放り出された事もあったそうだ。
四平街ママのこのいじめの例はひどすぎるかもしれない。だが日本人の私達の想像以上に台湾人が日本へ仕入れに来るのはただでさえハードルが高いのだ。今はネットが発達し居ながらにして外国のホテルの予約が出来る時代だが、以前はそうではなかった。その代り「日本仕入れ指南」みたいなガイドブックがあったのを本屋で見たことがある。私はもちろんそんな本を参考にする必要はなかった。
台湾の女性が一人で大きな空の旅行鞄とガイドブックを携え日本へ仕入れに行くことを想像してみよう。
実は日本へ行く前にやらなければならないことがある。日本人の場合もたぶん同じだと思うが、日本の馬喰町の問屋街で仕入れするには開店証明書というものが必要で、従って台北市長のハンコが押された文書を用意しなければならない。
次に羽田か成田につきガイドブックに従って電車に乗り馬喰町までたどり着く。そしてやはりガイドブックにあったホテルを探し当て、片言の英語でチェックインする。部屋に荷物を置き外へ食事に行く。ガイドブックにレストランの紹介もあるかもしれないが、それでも自分で見慣れないメニューを見、店員に指差しで注文する?それによほどの金持ちならいざ知らず、ほとんどの人は極力出費を抑えなければならないし、台湾の物価と日本の物価を比較せざるを得ない。自国ではなんなく行えていること、何の苦労も無く手に入る物がこちらでは何倍ものエネルギーと引き換えでないと出来ないことを知らされる。
これまでにもたくさんの勇気ある台湾人達が日本への仕入れに挑戦し、多くの人が失敗していったことだろう。しかしそれに挑戦する人は絶える事なくつづき、少しづつ道ができネットワークが生まれる。その一つが台湾人仕入れ人の為の格安のホテルである。1回だけ私達もそのホテルに泊ったことがある。
それは一つの大きい空間をパーティションで区切っただけで布団を二つ敷いたらいっぱいの小さな部屋だった。もちろん音も筒抜けで、通風が悪くノミ、シラミの類がいるらしくとても痒かった。共同のシャワーはあるのだが私は使う気にはならなかった。朝食付きなので翌朝行ってみると、そこは一般家庭の食堂と変わらない造りで、真ん中にちょっと大きめのテーブルがあり私達が入って行った時はすでに満員状態だった。自分でご飯や味噌汁をよそっていると、掻き込むように食べ終わった人達がいなくなり、そこへ座って自分たちも食べ始める。大皿の料理に手を伸ばしながらそっと観察してみる。
誰も一言も発せず何も見ていない顔がテーブルの上に並んでいる。すでに皆戦闘モードでこれから向かう戦場で如何に戦うかに思いを巡らせているのだろう。とても朝ご飯を味わう余裕もなくさっさと掻き込み部屋に戻り私達も準備を始めたのだった。
そして次に「海渡」「丸太屋」などの大きな卸へ出向き、台湾から持参した書類を提出すれば、いよいよ出陣だ。博労町にある小さな卸はその入館証をみせれば喜んで迎え入れてくれる。
ここまでだって結構大変なのだが、さていよいよ店に入り極度の緊張状態の中見て回り自分の求めている服を探す。たとえ気に入った服をみつけても、別の色やサイズが欲しくなり、それを言葉の通じない店員さんに伝えなければならない。実はここがポイントなのである。
現金で買い取り、台湾へ持って帰れば交換はできないのだ。言わば一発勝負なのだ。従って慎重に選びたいがそんな時間はない。手に取った服が果たしてどうなのか相談する相手もおらず、すべて自分で決めなければならない。自分に服選びのセンスがあったとしても、外国の様々なプレッシャーの中ではなかなかその力は発揮できないのである。
そしてここが分かれ道なのである。
ある人はそのプレッシャーに負け敗退、二度と日本へ仕入れに行かないという選択をし、おとなしく、台北で仕入れし商売をつづけるだろうし、大部分の人がそうだろう。
「四平街ママ」はしかし諦めなかった。人について付いて行ったらいじめられ、1人でいくにはプレッシャーが大きすぎる。そこで彼女は自分たちでチームを組んだらしい。台湾から日本へ仕入れに行く女性はほとんどがそうだと思う。そしてそれにはもう一つ別の大きなりゆうがある。