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45歳からの海外起業奮闘記 in 台湾

45歳で海外起業に挑戦 in 台灣 no:11

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疲れた!一休み!

「四平街ママとの学習の日々」

仕入 in 日本」

 台北というのはシンガポールほど小さ過ぎず、東京ほど大きすぎず、私にとってはちょうどいいコンパクトシティーだと思う。だからびっくりするほどの料金を請求されることなく貧乏性の私でもタクシーを利用することができる。

 また台北は盆地でほぼ平らなので自転車での移動も苦にならず、近年「遊バイク」という安く利用できる自転車と自転車専用道も整備され、ますます便利になっている。

「二昔、20年前の台北

 新しく日本服飾雑貨で残り半分の人生を切り開こうと目論む半外国人半現地人コンビの私達からすると、2000年ごろの台北は競争相手が多すぎる印象だった。

 日本から持ち込まれた服や小物、おもちゃなどが溢れかえり、あちこちで同じものを見かけることもしばしばだった。

 同じ物が売られているということは、それが人気がある、よく売れるということであるが、「あそこはいくらだった。」だの、「あそこはもっと安かった。」だのと、必ずお客に値切られることにもなる。

 そうならないためには仕入れを工夫するしかない。

‘’かぶらない仕入れ‘’を目指しての行き当たりばったりの仕入行脚。

 台湾から日本への仕入の場合、大阪と東京2つのルートがあり、どちらも行くという人もいるかもしれないが、どちらへ行くかは大体決まっているようだ。私の場合、東京生活が長く、土地勘もあるし、神奈川に家があるので当然東京で仕入することになった。

 それでもやはり興味があり、東京へ行く前に1回だけ大阪に仕入に行ったことがあるが、どうも慣れず、その後は行っていない。大阪の卸問屋街の地名は忘れた。東京は言わずと知れた馬喰町だが、多くの台湾仕入れ人達もここを目指して来る。

「独自の仕入れルート

 バッティングを恐れた私達は、問屋街の外へ打って出ることにした。と言うと大袈裟だが、結果的には間違ってなかったし、運も味方してくれた。

 しかしそれには非効率という欠点もあった。お客からの情報によると、多くの台湾仕入れ人達は馬喰町内だけでホテル、食事、そして仕入れが完結するので,4,5日の日程で済むらしい。

 私達は最初は9日間の日程だった。いくらなんでも長過ぎると私は反対したが、女房は聞きいれなかった。その後結局一週間に落ち着いた。

 なにしろ20年も前のことなので時系列では前後してしまうかもしれない。私達の家は住所で言えば神奈川県座間市で、最寄り駅は小田急相模原駅である。

 成田飛行場から成田エクスプレスで新宿へ出、ここで小田急線の一番速い電車(名称は各鉄道会社で違う、忘れてしまった。)に乗り、相模大野駅で各駅停車の電車に乗り換え、次の小田急相模原駅で下車し、タクシーに乗って10分弱でやっと我が家に到着。成田から合計3時間ぐらいだろうか。

 この頃私達が使っていた(というより、旅行代理店から手配された)のはシンガポール航空で、日本の家につくのはいつも夜遅くで、まずやるべきは郵便物のチェックだ。次の朝はそれを処理し、近所の店を回ることになる。

 今思うと、私達の仕入方法は無謀だったと思う。まったくの素人で業界の常識がなかったからこそ、こんなことが出来たのだろうと思う。それに45歳で仕事も辞め、貯金もなく、住宅ローンは重くのしかかり、ただ頼りだったのは失業保険だった。 

 正に背水の陣だからこそ、ああすべき、こうすべきなどと余計なことを考える余裕もなく、行動出来たのだ。

 仕入れ日程は7日間だが、安い航空券を使っているので、初日は台湾から日本への移動だけで終わり、最終日は神奈川の自宅から成田そして台湾への移動で消えてしまう。実質5日間。無駄のないルート選定が求められる。

 地元小田急相模原駅には私の住宅ローンを組んだ銀行もあり、ここを起点に走り回ることになる。近くのイトーヨーカ堂。ここは1階がスーパー、2階が衣料雑貨で小さいので直ぐに終了。

 そして町田へ。混んでさえいなければ車で15分ほどの距離だが、ここは東京都でJR横浜線小田急線が乗り入れ、乗降客も多く、小田急と東急の二つのデパートが競い合い、他に東急ハンズ、スーパー西友もあり、なかなか賑やかな街だ。

 デパートは高すぎて仕入れには使えず、スーパー西友の衣服売り場も小さすぎ、ただ商店街の中にある一軒の店ではいつも良い買い物が出来た。

私にとっての「いい買い物」とは、

「安く仕入れ出来て、高く売れる物」

である。

しかし残念ながら、しばらくしてこの店は閉店してしまった。

正に中国語でいうところの「好景不長」なのだ。

 

かきまぜろ Minasokowo!日が差せば一粒一粒がかがやくだろう。

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日本語教室

「基隆」

前回「基隆」のことを書いて、一人の生徒のことを思い出した。

 これは初めて公開するが、実は私は大学中退だ。私の入った東京にある小さな私立大学は卒業後先生になる人が多いのだが、私は中退なので教員資格はない。日本の家のローン返済を目論見、女房の実家のある台北で商売を始めた。しばらくして常連客の旦那さんから日本語を教えて欲しいと頼まれた。教員資格はないし、日本語を教えた経験もないし、自身もないしで、ためらった。

 当時の私の役割は、経営資金調達、仕入れに関わる全てのこと、例えば車を運転し仕入れ先を探す、服を選ぶ、仕入れ時に使っている日本の家の掃除草むしりなどなど。台湾では大阪のおばさんみたいに押しの強い台湾の女性に太刀打ち出来るほどの中国語はまだ話せず、簡単に言えば、台湾では役立たずだったので、日本語を教えてみることにした。

 教え始めて間もなく、常連客の旦那さんである生徒第一号に

「先生、本屋に(日本語の教え方)という本を売っていますよ。」と言われた。早速本屋へ行き、その本を買い、「日本語の教え方」の勉強を始めた。こんなバレバレの偽教師なのにこの生徒がやめなかったのはひとえに授業料の安さの所為だろう。最初授業料をいくらにするかで悩んだが、資格はないし、自信もないし、台北の相場もわからないし、確か100元か150元にしたと思う。

 このことを当時まだ在籍していた中国語学校の先生に話したら、

「馬鹿じゃないの。そんなに安かったら台湾中から生徒が押し寄せるよ。」と笑われた。その後知り合った、やはり台湾の女性と結婚し日本語を教えている人から、

「俺等の生活の邪魔すんじゃねえ!」と言わんばかりに

「価格破壊だ!」

と非難された。それ以来この人とは会っていない。

 さて少し時が経ち、日本語教師としての腕も多少は上がっていた頃だと思う。私達と同じようにブティックを始めたばかりで四平街ママの所に出入りしている女性の紹介で新しい生徒が来ることになった。台湾大学出であちこちの日本語教室へ通ったがうまくいかなかったらしい。日本でいえば東京大学に当たる台湾最高学府の台湾大学卒業と聞き正直ビビったが、興味もあった。

 私は基本的にワンバイワンで教えており、授業時間は少なくとも1時間半か2時間欲しかったのだが、彼の要望で1時間でスタートした。もともと彼は頭も良く、しかも学校を渡り歩いていて基礎もあるので、進歩が早かった。彼も当初私の教え方に満足して

「事半功倍」「功半事倍」(グーグルの翻訳によれば、「より少ないコストでより多くのことを行う」となっている。)と褒めてくれた。

 しかしすぐに彼の本性が現れた。頭が良すぎるので、彼はとにかくなんにでも批判的だった。彼の奥さんと奥さんのお父さんつまり義父に対しても容赦なかった。

 その頃日本から来て毎日大行列で話題になっていたダンキンドーナツについても、「あんなのは、時間の無駄だ。すぐに消えてなくなる。」と言い、私は、「いや、これからはあれが台湾の標準になり、どんどん新しいのが出てくる。私は日本でそれを経験しているから間違いない。」

 また「日本の物を高く売るのはおかしい。私が買っているゴルフクラブ台湾製より安い。」とまるで私が売っている服の値段のことを言っているように聞こえたので、私も「もしあなたが買ったゴルフクラブが本当に日本製ならそんなに安く売れるはずがない。私が売っている服だってちゃんと日本から持ってきているので、飛行機チケットなどの輸送コストや利益をのせたら高くなって当たり前。あなたが買ったのは偽物だ。」と反論。

 こんなことをやっていれば1時間なんかあっという間だ。いつも時間オーバーしてしまった。

 さらに彼は何度も日本へ旅行したことがあり、「レストランで水を頼んだが、日本人ウェイトレスはウォーターの英語さえわからない」とか、「日本の駅弁は冷たくてまずい」などと文句を並べる。そして、ある日こんなことを言った。

「基隆という地名は昔、日本軍が勝手に変えた。本当は(鶏籠)だったのだ。」とうとう来たかと思った。台湾では、日本人とわかると皆とても親切にしてくれるが、私は絶対に日本人に反感を抱いている人がいると考えていた。私は政治に関わりたくないので、この時は黙っていた。

 私の所に通いながら、何回目かの日本旅行から帰ってきた彼は日本語がほぼペラペラになっていた。これは私の力などでは決してなく、やはり彼はとびぬけて頭がいいのだ。私の方はどうやって勉強したのかを聞きたいくらいだったが、私にもプライドがあり、聞けなかった。

彼はますます過激になっていき、私の方も授業料を少しずつ上げていった。

これまでの日本語授業に関する様々な問題は、副教材と私の文学的素養(?)で何とか乗り切ってきたが、助詞「は」の解釈をめぐり議論になった。私も引くに引けず、自分の主張を押し通したが、

「先生、それはおかしい。」

とはっきり彼は言った。私の言うことにも一理はあったのだが、結局彼が正しかった。そして彼は払った分だけの授業を消化し、やめていった。最後に教室を出るとき、ドアを半分開き、私の方を振り向き様に

「けっ!このクソバカ教師!」

とでも言いたげに私を一睨みして去って行った。その後景美朝市ですれ違った時にももう一度がんを飛ばされた。

 

Kakimazero 水底を!日が差せば一粒一粒がかがやくだろう。

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アクション映画っていいなあ!


 

私達夫婦は台湾で服飾雑販売を生業としているとは言え、その後次第に明らかになるのだが、女房は実は台湾へ帰国し商売を始めることに乗り気ではなかった。一方私の方はもともと日本の家を買うことに乗り気ではなかったというより、買った後の何十年をローンを払うためにだけに会社で働き続ける自信がなかった。  

 そう言う訳で日本での会社勤めに精神的にいっぱいっぱいになり、あること(その内容はおいおい語って行こうと思う。)がきっかけで台湾に来ることになった。女房が主にやっている女性服の販売で生活し日本の家のローンを払っていた。3、4坪の小さな店舗と通路を挟みガラス越しにお互いを確認出来る距離に同じくらいの坪数の部屋を借り、私はそこで待機していた。

 「待機していた!?」

 女房がトイレへ行ったり、食べ物を買いに行ったりする間店番をするために事務所にじっとしていた。今思うとこれがダメだった。なんで女をつくらなかったんだ!(半分冗談です。)

 台北に林森北路という通りがある。この通り沿いに日本人駐在員、旅行者の男共の本能の渇きを癒してくれるバー、スナック、レストランなどが犇めいているというのを最近になってやっと認識した。

 林森北路から一歩入った「6条通り」に肥前屋という日本料理店があり、私が通っていた中国語学校の日本人の間でも噂になっており、私達も日曜日自分達の店の開店時間前に、列に並んで、安くて美味しい名物料理のうな重を何度も食べに行ったものだ。だが私が知っているのは林森北路の昼の顔であり、それとは全く別物の夜の顔があるなどとは想像だにしなかった。

 そして今になって思う。もう少し、視野を広げればよかった、心を開けば良かった。もう少し羽を伸ばして楽しめば良かった。日本人会というものがあるというのも後から知ったことだが、これにも顔を出して置けば良かった。この沢山の「良かった」をやってさえいれば、こんな目に会うこともなかっただろう。

 「私にはそれが出来なかった、」簡単に言えばそう言うことだ。たちあげたばかりの商売、毎月の日本のローンや車検、ビザ、中国語学習、日本語授業のための日本語の勉強などなどが次々と私を(「私達を」ではなかった。)心理的に攻め立てた。

そんな中中国語学校の帰りに台北駅前三越の10階にあった本屋によく立ち寄った。中国語で書かれた本を見てみる目的ではあったがまだ歯が立たず、結局いつも日本語の本を手に取った。入り口近くに平積みされた台湾在住日本人達が書いた本はよく買って読んだ。その中で、日本語教師と翻訳をやってみて、結局日本語教師は自分には向かず、翻訳をやっているという人の本が気になった。

 「自分はどちらがむいているのだろう?」

どっちも向いていない可能性には考え及ばず、私は翻訳で喰っていくことに憧れ始めていた。日本人の翻訳者を募集している会社を訪ねた。いろいろなやり取りをするのにコンピューターが欠かせないと言われた。

 私にはワープロで日本語のタイピング練習し挫折した経験があり、なおかつコンピューターにはまるっきり知識がなかった。幸い私の日本語教室にコンピューター関連会社で働いている生徒がおり、彼が台湾版秋葉原の光華商場へ私を連れて行ってくれ、私用卓上型コンピューター選びを手伝ってくれた。

 こうして45歳過ぎてコンピューターと出会い、勉強が始まった。とはいえ中国語も初級、コンピューターも初級では結果が出るはずもなく、憧れの翻訳者の夢はすぐに潰えたのだが、何か創作したい、台湾での経験を記してみたいという気持ちは消えることなくあり、例の生徒に頼んでブログを作ってもらたのだが、中国語版だったので、やはり生かすことが出来なかった。

 ただ日本語教室でも生徒に配る文書作成のワードやエクセル、服店の方の張り紙作り、金持ちの上客が子供の勉強をプッシュするために台湾では手に入らない玩具類をヤフーオークションで落札する手伝いをしたりなどとコンピューターは役に立ち、私はどんどん嵌まっていった。

 この頃ちょうど日本でも大流行していた韓国ドラマのDVDもよく見た。もちろん内容が面白かったのもあるが、中国語のアテレコのスピードが初級者の私にちょうどよく、発音も明瞭で聞き取りやすかった。それに中国大陸の「三国志」などの時代劇のDVDも台湾の現代劇やニュースなどよりスピードが遅く、中国語のヒヤリングに役に立った。

 そしてその中でも一番熱中したのが、只で見放題のアメリカ、イギリスなどのテレビドラマや映画のホームページであり、それからはすっかり映画館から遠ざかってしまったのだ。

 他に大きな要因として、この時から今に至るまで私を苦しめ、気力も体力奪っている下痢と風邪もあるが、ほぼ20年間林森北路のがやがやを知らず、10数年に渡って映画館に近寄らず、引きこもってきた。

 これに風穴を開けてくれたのが上の写真の映画だ。最近UTUBEで沢山の人が紹介していたのを見て、見てみたくなった。見たらそれほど面白い映画ではなかったが、暗い室内で大迫力の音量に揺さぶられながら、知らない人達が発する声や音や時々携帯の光などの微かな干渉の中、それでもいっしょに大きな画面を見るという映画館独特の雰囲気を久しぶりに味わった。それから毎週土曜日はマイ映画デーである。

 

かきまぜろ 水底を!日が差せば一粒一粒がかがやくだろう。

「地を這う男ー景美朝市」

  「トイレを出、改札の前を通り過ぎようとする時、まだ台湾に来てまもない頃、基隆夜市で目撃した出来事を思い出した。つづく」

 と前回を締めくくったが、

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foodpandaさん、配達ごご苦労様です。ubereatsに負けるな!


続かず、寄り道させていただきます。

 これは私が景美に女性用衣服小物販売の店(「ブティック」と一思いに表現したくてもできない有様)オープンする前、台北台北懸各地の朝市で日本で仕入れた物を売って暮らしていた頃の、つまり目にするすべての物がまだ新鮮で刺激的だった頃のことである。

 私はトイレか買い物でどこかへ行って来たのだと思う。女房が一人で店番をしている場所へ戻ろうと、少し広い通りからちょっと狭い景美朝市で一番人が多くごったがえしている通りへ入りかけた時、急に私の前の人垣が割れた。

 そして、目に飛び込んできたのは、地べたを這う男の姿だった。肌はどす黒く髪はぼさぼさで両手と両足に薄汚れて黄ばんだ厚手のサポーターを巻いたパンツ一丁の男が四角い木で出来た魚箱のような物を押し、這いながら私の方へ向かって来ていた。

 日本ではあり得ないこの衝撃の光景に驚いた。

  それと同時に、暮れのアメ横並みに混雑する人混みの中を匍匐前進する男の妨げにならないよう避けつつも、買い物モードの真剣な表情を崩すことなく前へ進み、男の驚異的なパフォーマンスに何の反応も示さない台湾人達にも驚いた。

 以後も何回かこのパフォーマンス男を見かけたが、訳あって私はこの景美を出たり、入ったりし、20年たった今はもう見かけない。彼がどうなったかは知らない。

「基隆夜市」

 さて基隆の話をしよう。ここは今は基隆夜市で有名だが、日本統治時代には日本軍の軍港が置かれ、日本からの物質がたくさん入って来ていたようだ。日本軍が去った後も日本の女性服や小物で商売している店が残っている。という情報をお客から教えてもらい、視察に来た。

 台北から基隆へは電車とバスの交通手段があり、最初はよく分からず電車を使ったが、後からは本数が多く、遅くまで運行しているバスに乗るようになった。所要時間は40分ぐらいだ。

 何度もここに通ううち、台北とその周辺の夜市の中では私の一番好きな夜市になり、はしごする食べ物の屋台の順番も次第に決まっていった。だがその日はよっぽど腹が減っていたのか、それともこの夜市に通い始めのころだったのかもしれない。

「忍者男出現」

 駅のほうから歩いて来て、基隆夜市の入り口付近の道の真ん中で営業している麺類の屋台に目が留まった。4、5人掛けの木の椅子に座ったカップルがちょうど立ち上がりお金を払って立ち去ろうとしていた。4、5人掛けの椅子に4人はちょっときついから、「ちょうどよかった。」と思ったその時だった。

 髪の長い黒づくめの男が忍者よりも早く忍び寄り、屋台の台の上のカップルが使った箸を掴むや否や、どんぶり内の残された実と汁を人間業とは思えないようなスピードで口に放り込んで去って行った。

 電光石火のスピードで演じられたパフォーマンスを気付かぬ振りをして洗い物をしていた店主の表情はとても緊張しているように見えた。

 「お客さんが帰ってしまわぬうちに、早く食べて消えてくれ。」とその表情は言っているように思え、そしてきっとこれがはじめてのことではないのだろうとも私は考えた。

45歳で海外起業に挑戦 in 台灣 no:10

「四平街ママとの学習の日々」ー「仕入れ、台湾から日本へ」

「満足」という名のおばさん

 女房のおばさんは義母の妹で8人兄弟の末っ子で、「子供はもうこれで十分」ということで「満足」と名付けられたというのが、女房の実家に遊びに来た時のお決まりの笑い話の一つだったが、それが本当なのかどうかは私は知らない。そんな彼女は、子供が多すぎたのだろう、小さい頃に養子に出され、別の家で育ち、そして大きくなった綺麗な彼女は板橋というところに住むちょっとした資産家と結婚した。

 この金持ちの旦那とおばさんが一度、私達の店に遊びに来た。どこで覚えたのか知らないが、「構わない!」と「あたまコンクリ!」という日本語をこのおじさんは連発し、笑いをとろうとした。

 それから私達夫婦を駐車場に停めた車のところまで連れていき、トランクのなかに入れてあった札束を掴んで私達に見せた。その札束の厚さにも驚いたが、それよりもそんなにたくさんの現金を駐車した車の中に置きっぱなしにしたことにもっと驚いたし、何のためにこんなことをするのかも理解できなかった。

 金持ちというのはそんなものなのだろうか?

 私達の日本への仕入れに、一度このおばさんも同行したことがある。彼女にとっては観光旅行であり、私達にはいつもの必死のしごとである。そしてあっという間の1週間が過ぎ、私達の鞄にはこれでもかといわんばかりに商品を詰め込み、おばさんの鞄には自分で買った服の他にも私達のも少し入れてもらった。

 さてこの仕入れ旅行の最後の関門である台湾の税関ゲートを私達は無事くぐり抜けたのだが、なんと初めてのおばさんが一発で引っ掛かってしまったのだ。このことは、税関の人達はどんな人物に注意をしているのかを私に考えさせてくれた。

 NO :9で、四平街ママもそうであるように台湾から仕入れに来ている人たちはチームを組んで、日本での様々なハードルを乗り越えているという話をした。NO:8では私達の「税関突破作戦失敗」を書いた。

 実は私達はその前に、四平街ママの税関突破方法を聞かされて知っていたのだが、それは私達にはとても真似できるものではなかった。

 その方法というのは「税関職員買収」だったのである。この話を聞きながら「お金を差し上げますから、見逃してください。」と税関を通る時に話しかける自分を想像してみたが、とても出来るとは思えなかったし、いやそれどころか買収容疑で捕まってしまうだろうと思った。そしてNO:8の「税関突破作戦失敗」へと至る訳だが、外国で商売をやっているといろんなことを経験するものだ。

「 四平街ママと満足おばさん」

 日本からの帰り、台湾の税関をひやひやしながら通る度、どうやったら「四平街ママ」みたいに税関職員とのコネがつけられるのだろうと考えてみたが、わかるはずもなかった。ところが「満足おばさん」の事件がヒントを与えてくれた。

 二人には共通項がある。分かり易く言えば、二人とも水商売系の仕事に従事している人たちが醸し出している雰囲気に近い物を持っている。そこまでけばけばしく尖がってはいないものの、普通の人にはない”つや”のようなものがあり、「こいつら商売やってんな!」と容易に税関職員に思わせるのだと思う。

 台北県(現在は新北市)の新店というところにある、四平街ママのチームの一人の店を密かに視察しに行ったことがある。旦那さんは私とどっこいどっこいのダサいおじさんだったが、奥さんはさすがにしゅっとして四平街ママと同じ雰囲気を持った女性だった。

 つまり一般人にはない ”つやつや”の複数の女性達がゲートにやってくれば税関職員だって調べてみようという気にもなるだろう。そうやって別室に連れて行かれた四平街ママのチームは、泣き落とし?色仕掛け?いや、少なくとも電話番号は手に入れ、それをとっかかりに買収が成立したのだろうと私は推測した。

 いずれにしろ、私達には真似できないし、ぜんぜんしゅっともしておらず一般人そのものなので、女房さえ私の言うとおり、荷物を受け取ったら慌てずなるべく人の少ないゲートを選べば問題ないし、事実20年間無事だったのだ。

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つやつや!

 

45歳で海外起業に挑戦 in 台灣 no:9

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早起きは三文の得!

「四平街ママとの学習の日々」

 「仕入れ 台湾から日本へ」

「馬喰町」

 馬喰町というのは日本一の衣料品関係の卸の集積地である。その真ん中を貫くように江戸通りが通っている。海渡はこの通りに面して卸街のほぼ中央に建っている。毎時に音楽とともに人形が出てくる時計がトレードマークの海渡本部ビル。その周囲にも何棟もの海渡ビルや駐所場も所有する馬喰町一の卸売会社である。

卸「海渡」

 台湾で服飾雑貨の仕事を始めて多くの人に「馬喰町に海渡あり」というのを何回も聞かされた。日本のことを外国の人に教えてもらうのは、悔しいような情けないような複雑な感じだったが、この業界で生きていくためには行ってみるしかない。そこで台湾から持参した書類を提出、手続きを済ませ入館証を手に入れた。

 入り口で渡されたバッジを胸に付けビルの中へ入ると、そこはまるでデパートのように明るく華やかで、しかもその種類と量の多さに圧倒されてしまった。女房は「ここは日本のデパートにも卸してるらしいよ。」と感心したように言った。そうかもしれないと私も思った。

 館内を見て回るとやはり何人も中国語を話している客とすれ違った。一番上の階から各階を見て回り1階まで辿り着くと、スーパーみたいに会計のレジが並んでいて、商品の入ったカートを推し、番号札を手にしたたくさんの人達が病院の待合室みたいな椅子に座って自分の順番が来るのを待っていた。かなりの 盛況ぶりだ。

 「海渡は旦那さんが日本人で奥さんが台湾人らしいよ。」と女房がいった。同じ台湾から来て商売を始め、こんな大成功を成し遂げた人の建てたビルを見つつ、お決まりの嫉妬にさいなまれながら自分たちの小ささを思い知るのだった。

 とは言えここで私達が仕入れたのはぬいぐるみなどの小物とトートバッグのような手提げ類だけで、衣服に関しては値段的に許容範囲の物で目に適うものはなく、素晴らしいと思えるものは高すぎてとても手が出なかった。 「他の台湾人達はどういう仕入れの仕方をしているのだろう?」と気になったが、それがわかったとてどうしようもないことだとも思った。自分達は別の道を行くしかないのだ。

 そしてそうなった。というのは「海渡王国」には 

”年100万円(正確な数字は覚えていない)以上買わなければ入館資格喪失”

 という厳しいルールがあったのだ。資格喪失してからそれを知り、なんとかならないかとその部署に相談にいったがどうにもならなかった。100万円というと月10万弱。私達は2か月に1回のペースで日本へ仕入れに来ていたので、20万円弱仕入れしなければならず、小物だけでこの金額に達するのは不可能だった。

 また女房が言うには、この縛りの対象は台湾人だけで日本人には適用されないらしい。女房の情報がどこまで正しいか分からないが、台湾人の女社長は何故同胞である台湾人の仕入れ客にだけそんな縛りを課すのだろうかと私は不思議に思った。それでもここが好きな(?)台湾人達はチームを組むことでこの数字をクリアしようと考えたのだ。

 四平街ママもやはり同じことをした。チームの全員がそれぞれ入館証を得るために手続きする必要はなく、一人が持っていれば他のメンバーは従業員という名目でもバッジがもらえるし、あるいは皆で一緒に行くのではなく別行動で入館証を使い回すというやり方もある。

 人に付いて初めて日本へ仕入れに行った時はいじめられた四平街ママは、どうやってかは知らないが、その後メンバーを探しチームを組み、仕入れができるようになった。台湾からここまで来るのに苦労の連続なのだが実はこれで終わりではない。最後の関門が待っているのだ。

45歳で海外起業に挑戦 in 台灣 改編no:8

 

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仕入れ旅行

「四平街ママとの商売学習の日々」

 

仕入れー台灣から日本へ」

  四平街ママのところへ何度も通ううち次第に打ち解けて行き、彼女は服のことだけでなく仕入れについて、台北駅後ろ、市民大道の向こうに日本の女性服卸の店が集まる場所があり、そこで長年培った信用で後払いで日本から届いたばかりのスペシャルな服を誰よりも早く仕入れられるのだと教えてくれた。

「四平街ママの辛い過去」

 しかしそれは後のことで、この商売を始めた頃は知り合いに連れられ日本へ行き、ひどい事にホテルを出て仕入れに向かう途中で急にみんないなくなり、右も左もわからぬ外国の街中に一人放り出された事もあったそうだ。
 
 四平街ママのこのいじめの例はひどすぎるかもしれない。だが日本人の私達の想像以上に台湾人が日本へ仕入れに来るのはただでさえハードルが高いのだ。今はネットが発達し居ながらにして外国のホテルの予約が出来る時代だが、以前はそうではなかった。その代り「日本仕入れ指南」みたいなガイドブックがあったのを本屋で見たことがある。私はもちろんそんな本を参考にする必要はなかった。
 
 台湾の女性が一人で大きな空の旅行鞄とガイドブックを携え日本へ仕入れに行くことを想像してみよう。

 実は日本へ行く前にやらなければならないことがある。日本人の場合もたぶん同じだと思うが、日本の馬喰町の問屋街で仕入れするには開店証明書というものが必要で、従って台北市長のハンコが押された文書を用意しなければならない。

 次に羽田か成田につきガイドブックに従って電車に乗り馬喰町までたどり着く。そしてやはりガイドブックにあったホテルを探し当て、片言の英語でチェックインする。部屋に荷物を置き外へ食事に行く。ガイドブックにレストランの紹介もあるかもしれないが、それでも自分で見慣れないメニューを見、店員に指差しで注文する?それによほどの金持ちならいざ知らず、ほとんどの人は極力出費を抑えなければならないし、台湾の物価と日本の物価を比較せざるを得ない。自国ではなんなく行えていること、何の苦労も無く手に入る物がこちらでは何倍ものエネルギーと引き換えでないと出来ないことを知らされる。

 これまでにもたくさんの勇気ある台湾人達が日本への仕入れに挑戦し、多くの人が失敗していったことだろう。しかしそれに挑戦する人は絶える事なくつづき、少しづつ道ができネットワークが生まれる。その一つが台湾人仕入れ人の為の格安のホテルである。1回だけ私達もそのホテルに泊ったことがある。

 それは一つの大きい空間をパーティションで区切っただけで布団を二つ敷いたらいっぱいの小さな部屋だった。もちろん音も筒抜けで、通風が悪くノミ、シラミの類がいるらしくとても痒かった。共同のシャワーはあるのだが私は使う気にはならなかった。朝食付きなので翌朝行ってみると、そこは一般家庭の食堂と変わらない造りで、真ん中にちょっと大きめのテーブルがあり私達が入って行った時はすでに満員状態だった。自分でご飯や味噌汁をよそっていると、掻き込むように食べ終わった人達がいなくなり、そこへ座って自分たちも食べ始める。大皿の料理に手を伸ばしながらそっと観察してみる。


 誰も一言も発せず何も見ていない顔がテーブルの上に並んでいる。すでに皆戦闘モードでこれから向かう戦場で如何に戦うかに思いを巡らせているのだろう。とても朝ご飯を味わう余裕もなくさっさと掻き込み部屋に戻り私達も準備を始めたのだった。


 そして次に「海渡」「丸太屋」などの大きな卸へ出向き、台湾から持参した書類を提出すれば、いよいよ出陣だ。博労町にある小さな卸はその入館証をみせれば喜んで迎え入れてくれる。

 ここまでだって結構大変なのだが、さていよいよ店に入り極度の緊張状態の中見て回り自分の求めている服を探す。たとえ気に入った服をみつけても、別の色やサイズが欲しくなり、それを言葉の通じない店員さんに伝えなければならない。実はここがポイントなのである。
 現金で買い取り、台湾へ持って帰れば交換はできないのだ。言わば一発勝負なのだ。従って慎重に選びたいがそんな時間はない。手に取った服が果たしてどうなのか相談する相手もおらず、すべて自分で決めなければならない。自分に服選びのセンスがあったとしても、外国の様々なプレッシャーの中ではなかなかその力は発揮できないのである。

 

  そしてここが分かれ道なのである。

 

 ある人はそのプレッシャーに負け敗退、二度と日本へ仕入れに行かないという選択をし、おとなしく、台北仕入れし商売をつづけるだろうし、大部分の人がそうだろう。

 

 「四平街ママ」はしかし諦めなかった。人について付いて行ったらいじめられ、1人でいくにはプレッシャーが大きすぎる。そこで彼女は自分たちでチームを組んだらしい。台湾から日本へ仕入れに行く女性はほとんどがそうだと思う。そしてそれにはもう一つ別の大きなりゆうがある。